ここに描かれているのは「道をしへ」の存在のみである。「道をしへ」は、「斑猫(はんみょう)」とも呼ばれる昆虫のことで、俳句では夏の季語となる。体長は大体二センチと小さく、頭部は光沢を帯びた緑色をしており、首の部分は赤で同じく光沢を帯びている。翅は基本的に紺色で、前翅の部分には白い斑点があり、胴体の上には赤い帯が縦に細く、横にやや太めに滲むようにさしている。緑、赤、紺、白など非常にカラフルな外貌をした昆虫となるわけであるが、このような特殊な色彩をしているは、夏の強い日射しをはね返し、体温の上昇を防ぐためであるそうである。
句意は、シンプルで明瞭なものといっていいであろう。確かに「道をしへ」は、メタリックな光沢を帯びた体躯ゆえ、まさに精緻な「錻力(ブリキ)細工」を思わせるところがある。それこそ一句中には余分な要素がなく、「道をしへ」の存在そのものが一つの「物体」としてそのまま浮かび上がってくるようなところがある。
藤後左右の俳句には、掲句のように視覚に重点が置かれたものが多く見られる。例えば、〈和歌の人花のくもりに海苔とれる〉〈夏山と熔岩(ラバ)の色とはわかれけり〉〈まつさをな雨が降るなり雨安居〉〈噴煙は遠し萩咲き野菊咲き〉などからは、色彩感覚に対する鋭敏さをそのまま見て取ることができよう。
また、視覚ということでは、「距離による広がり」を感じさせるものも少なくない。〈たかうなに幾千の竹生ひ立てる〉〈萩の野は集つてゆき山となる〉〈曼珠沙華(まんじゆしやげ)どこそこに咲き畦に咲き〉〈見てとほる雪のふる驛ふらぬ驛〉〈奥宮へ石段つゞき花つゞき〉〈蜜柑山の中に村あり海もあり〉などは、一点から広大な景観へと視野が拡張してゆくような感覚がある。
掲句にしてもそうであるが、全体的にあまり気負いが感じられないところがあり、いま挙げた作品のようにある種の方法論的な側面もないわけではないのであるが、それでも、どちらかというと、見たまま、思いついたままに句作しているといった趣きが強く、そのことが「ホトトギス」における好成績へと結びつく結果となっていたのではないかと思われる。それこそ当時は、中村草田男とともに雑詠欄において新鋭の名をほしいままにしていたという。
その後は、医業が忙しかったのか、やがて俳句からやや遠ざかる結果となったとのことである。それでも後年、句作を再開し、口語による俳句表現の可能性を追求する方向へと進んでゆくこととなった。
藤後左右(とうご さゆう)は、明治41年(1908)、鹿児島県生まれ。昭和3年(1928)、京大医学部に入学。京大在学中に「京大三高俳句会」に入り、鈴鹿野風呂主宰の「京鹿子」参加、「ホトトギス」に投句。昭和8年(1933)、井上白文地、平畑静塔、長谷川素逝らと「京大俳句」創刊。昭和26年(1951)、「天街」発行主宰。昭和30年(1955)、波止影夫が創刊した「芭蕉」に参加。昭和43年(1968)、第1句集『熊襲ソング』。昭和56年(1981)、『藤後左右句集』。昭和61年(1986)、『ナミノコ貝』(現代俳句の一〇〇冊)。平成元年(1989)、『新樹ならびなさい』。平成3年(1991)、逝去(81歳)。平成3年(1991)、『藤後左右全句集』。