【70】  おおかみに螢が一つ付いていた   金子兜太

日本の狼は、明治38年(1905)に奈良県東吉野村で捕獲されたのを最後に目撃例がなく、絶滅したといわれている。そもそも狼は、日本では「大神」として、古くから超自然的な力を持つ獣と信じられ、山神の化身、使者として敬われていたという。掲句では、その「おおかみ」に「螢」が、唯「一つ付いていた」と表現されている。超俗性を感じさせる「おおかみ」の存在と、幽玄な光を発している「螢」の組み合わせからは、それこそこの世ならぬ凄みとでもいったものが感じられるところがある。また、時制が、只今現在のものではなく、「付いていた」という過去形で表現されている点もややフォークロアめいており、そういった只ならぬ印象をさらに強める結果となっているといえよう。

雄々しさ。この作者の作品から強く感じられるのは、この要素であろう。掲句にしてもそうであるが〈粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に〉〈果樹園がシャツ一枚の俺の孤島〉〈海鳥が激突おれの磨崖仏〉〈魂きわまる螢火おれに眠りあり〉〈毛物たち俺の朝寝を知つている〉などに象徴される、まさに「俺の俳句」としかいいようのないヴァイタリティに溢れた作品世界が展開されている。

豪放磊落な印象が強いが、それのみならずこの作者には、割合ナイーブな要素が内包されているところもあるようである。例えば〈蛾のまなこ赤光なれば海を恋う〉〈あお向きしとき月ありぬ一つの月〉〈蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て〉〈空罐に半円の水傾く死者〉〈雪の海底紅花積り蟹となるや〉〈朝寝して白波の夢ひとり旅〉などの作品からは、いくらか内省的な雰囲気が感じられる部分があるといえよう。掲句にしても、たった「一つ」の「螢」が明滅している様子が描かれているわけであるから、割合繊細な要素が含まれているといえそうである。しかしながら、そのようなナイーブさをも覆い得る程の膂力が、金子兜太の内には在しているということになるのであろう。

そういった生命力の強さを誇る作品として〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉〈きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中〉〈暗闇の下山くちびるをぶ厚くし〉〈強し青年干潟に玉葱腐る日も〉〈攣曲し火傷し爆心地のマラソン〉〈濁る渓流四肢放埓に生まれきて〉〈谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな〉〈二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり〉〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉などが挙げられる。掲句にしてもそうであるが、これらの作品は、いくらかのフィクション性を伴う内容でありながら、単にそれだけにはとどまらないリアリティが感じられるところがある。それは、やはり句の中に肉体性や身体意識が確と内在していることが、ある手応えを以て感取されるゆえということになるのであろう。

掲句は、作者の育った秩父を舞台として詠まれた作品であるという。先にも挙げた初期の「どれも腹出し秩父の子」という句があるが、この作者の基底部にはやはりこの秩父の風土性が大きく関与していると見ていいであろう。そして、その句業全体を俯瞰してみた場合、常に一貫して感じられるのは、野生的なダイナミズムということになる。わかりやすい例としては、掲句における狼をはじめ、他に猪、犀、青鮫、熊、狐、象、牛、狸、猫、蛙、鯉、蝮など、挙げれば切りがない程様々な動物が作品の上において頻出するが、これらのおおよそは基本的に作者自身がそれらの動物になり変わっているものと見て間違いないであろう。

結局のところ、金子兜太は、若き日より現在に至るまで、生来よりの「内なる野生」に突き動かされるかたちで延々と驀進を続けてきた類稀なる作者ということができるはずである。

金子兜太(かねこ とうた)は、大正8年(1919)、埼玉県生まれ。父は「伊昔紅」という俳人。全国学生俳誌「成層圏」に参加。昭和16年(1941)、加藤楸邨の「寒雷」に投句。昭和21年(1946)、「風」に参加。昭和30年(1955)、『少年』。昭和36年(1961)、『造型俳句六章』において、「造形」の理念を提唱。昭和36年(1961)、『金子兜太句集』。昭和37年(1962)、「海程」創刊。昭和43年(1968)、『蜿蜿』。昭和47年(1972)『暗線地誌』。昭和49年(1974)、『早春展墓』。昭和50年(1975)、『金子兜大全句集』。昭和52年(1977)、『旅次抄録』。昭和56年(1981)、『遊牧集』。昭和57年(1982)、『猪羊集』。昭和60年(1985)、『詩経国風』。昭和61年(1986)、『皆之』。平成7年(1995)、『両神』。平成13年(2001)、『東国抄』。平成14年(2002)、『金子兜太集』1巻~4巻。平成21年(2009)、『日常』。