個人的な話であるが、掲句の存在を知ったのは、たしか小学校の6年生の頃ではなかったかという記憶がある。偶々テレビで山頭火の生涯を辿る番組が放送されており、そこに紹介されていた作品のひとつがこの句であった。俳句などろくに知らない小学生の頃のことながら、割合印象に残っているところがある。
改めて掲句を眺めて見ると、確かに小学生でもわかりそうなシンプルな句である。一応ここに描かれているのは、「青い山」と、そこを行く作中主体の「私」のみということになる。「青い山」ゆえ、夏の季節の句と見ていいであろう。まさにいくら奥へ進んでも「青い山」が延々と続いているといった景観が描かれている。
「青い」という言葉が、若干絵画的な雰囲気を想起させるところがあるが、それのみならずここからは、溢れんばかりの「緑の海」(樹海)が眼前に広がっているかのような感覚を覚えるところがある。それこそ人間の存在が非常に微小なものとして認識され、風土そのものの持つスケールの大きさや奥行きが、そのまま直截に感じられる懐の深い句といえよう。
山頭火には、このような自然界の広大さを感じさせる作品が少なくない。例えば〈生死の中の雪ふりしきる〉〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉〈鉄鉢の中へも霰〉〈月かげのまんなかをもどる〉〈あざみあざやかなあさのあめあがり〉〈笠をぬぎしみじみとぬれ〉〈この道しかない春の雪ふる〉〈あうたりわかれたりさみだるる〉〈炎天のレールまつすぐ〉〈おとはしぐれか〉〈石を枕に雲のゆくへを〉など、ここには広い世界とその懐にある自らの存在の関係性が描かれているといっていいであろう。
山頭火には、旅(行乞)の中における句が数多く見られる。掲句にしてもそうであるが、このことは、作品の上にも少なからず影響を及ぼしていると見ていいであろう。「分け入つても分け入つても」という「6音・6音」のリフレインによる表現は、それこそ歩行のリズムと深い相関の関係にあるものいえるはずである。他にもこのような句は少なくなく〈踏みわける萩よすすきよ〉〈歩きつづける彼岸花咲きつづける〉〈木の芽草の芽あるきつづける〉〈雨ふるふるさとははだしであとるく〉〈萩がすすきがけふのみち〉〈あるけばかつこういそげばかつこう〉〈しぐれて山をまた山を知らない山〉〈越えてゆく山また山は冬の山〉などが確認できる。これらの句からは、先へと進んでゆく時間的な経過と共に空間的な広がり(展望)が感じられるところがある。
山頭火の俳句は、牧歌的といえば牧歌的、そして通俗的といえば通俗的な部分が大きいといえるかもしれない。そのことは、尾崎放哉(1885~1926)の作品と比べた場合明らかであろう。放哉がその晩年小豆島で病苦をモチーフとした境涯性の強い作品を詠んでいたのに対して、山頭火の方は、まさに「行雲流水」とでもいうように気の向くままに放浪を繰り返し、句作を行っているといった趣きが強い。
ただ、それでも、人口に膾炙した句がいくつか存在し、現在のところ、芭蕉、蕪村、一茶、子規と並んで、もっとも国民的な俳人のひとりが、山頭火であるということができそうである。
種田山頭火(たねだ さんとうか)は、明治15年(1882)、山口県生まれ。明治43年(1910)、結婚。大正2年(1913)、荻原井泉水に師事。大正5年(1916)、「層雲」選者。1920年(大正9年)、離婚。大正14年(1924)、出家得度。大正15年(1925)、西日本を中心に行乞放浪、旅先から「層雲」に投稿。昭和7年(1932)、『鉢の子』。昭和8年(1933)、『草木塔』。昭和10年(1935)、『山行水行』。昭和11年(1936)、『雑草風景』。昭和12年(1937)、『柿の葉』。昭和14年(1939)、『孤寒』。昭和15年(1940)、『草木塔』、『鴉』、逝去(58歳)。