2017年5月27日

夏蝶のかすめてゆきし空の青

俳句を俳句たらしめているものは何かといえば、私は定型の韻律だと思っている。少し前に笠間書院から刊行された『俳句のルール』に、「定形と字余り」について書かせてもらった。その本のことは、東京新聞の俳句月評(4/15)に佐藤文香さんが手際よく書いているのを読んだ人もいると思う。

本書で「無季・自由律」の章を執筆した青木亮人は、無季俳句や自由律俳句を俳句たらしめる「俳句的な何か」とは何かを解き明かそうと努めた。中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生えそむる」は、単純な色彩や大小の対比から成る生命感のみを描いたものではなく、「個人の意志を超えた生命への畏怖」「父親としてわが子の成長を喜ぶ心情」の入りまじった作品であるとした。その上で「常識や先入観が不安定に陥った瞬間の生々しさが読者に伝わってくる、その何かが宿っていれば『俳句』であり、自由律や無季句でもそういう手触りがあれば『俳句』である」と指摘する。

ということだが、私はどうも納得しがたい。なぜなら「その何かが宿っていれば『俳句』」というところを『短歌』に置き替えても支障がないような気がするからだ。内容からは形式を定義づけられないのではないか。青木氏の本文の中の

鋭い方は簡単なことに気付くかもしれません。「俳人と名乗る作家が詠めば俳句になるのでは」と。これは一面、当っています。

この部分のほうがずっと説得力がある。高山れおなさんの「麿、変?」は、俳人を名乗るれおなさんが俳句だと言うので俳句ということになっているのだけれど、歌人を名乗る誰かが同様のものを短歌だと言えば短歌ということになるのでは。その際、俳句と短歌の違いは説明できないと思うのだが。もちろん、私には俳句とも短歌とも認識しにくいが、本人がそう言うのは自由である。私が俳句だと思うのは五・七・五の定型のリズムに乗っているモノ、必ずしも十七音でなくても可、ということになるだろうか。