2015年9月16日

雨打つて肉のおもさの鶏頭花

或る大学生の男が、講義を終えた学生の群れを泳ぐように駅へ向かっていた。彼の鞄は鉛の重たさで左肩を沈めた。やがて、雨が音なく降りはじめた。

彼は生まれつき自分を幸運な人間だと思い込んでいた。その割には、勝負事にはめっぽう弱かった。小中と野球をしていたが、塁上にランナーがいるだけでそもそも高くない打率がめっきり下がった。麻雀をやっても、妹が雀鬼なのに比べて彼は引きが悪い。「大塚凱」で姓名判断をしても、「ギャンブルには向かない」と診断されることが常だった。ただし彼は、自分を幸運だと思い込む能力には長けていた。彼は大抵の失敗を、学びの代償だと捉えた。高校生の頃、彼は自習時間中に雑誌の袋とじをカッターで切ろうとし、誤って掌を5針縫う怪我をした。それ以来、「この怪我に比べれば世の中のことはそれほど痛くない」と考えるようになった。そんな思想をしているゆえに、自分を切り売りすることをそれほど厭わない人間でもあった。厭世的な気分になった夜でさえ、浴槽に浸かっているだけで悩みのおおよそが肌から排出されてゆくようなここちがした。彼は長風呂を好んだ。

そうは言っても、一日の疲れが足取りを重くさせた。傘を差すことすら億劫に感じられた。髪は濡れてなまぬるい。額を伝う雨垂れを指先が拭った。彼は驚いた。雫は粘り気をもっていたのだ。ぬめぬめとした髪は嫌悪を抱かせたが、同時にその指先からはかぐわしい匂いがした。彼は頭皮から滲む謎の分泌物に、焦った。かつての怪我のおかげで痛みに対する耐性ははるかに高まってはいたが、ある日突如として後ろ指をさされるような体質になることを予期してはいなかった。歩みが速まった。

駅に着くと、一目散に化粧室に向かった。鏡を見ては、つやめくばかりの髪を掻き毟った。髪がかすかに泡立った。彼はふっと、鏡の中の男を憐れんだ。そのぬめりの芳香が、かえって青年の憐れさを増幅させた。彼は鞄の底から渋谷駅で攫ったポケットティッシュを掘り起こして、髪を拭った。ひととおりのぬめりを取ると、日本人にしては筋の通ったご自慢の鼻へ近づけた。

彼はその匂いを思い出した。風呂場にあるトリートメントの匂いだ。普段はリンスすら使わない彼は昨夜のきまぐれに、ほんの出来心で、そのトリートメントをつけたのだった。そして常日頃の長風呂をし、洗い流すのを忘れたまま眠り、朝を迎え、登校し、授業を終え、雨に濡れたのだった。彼は雨に蘇ったトリートメントを匂わせながら、ため息をつくように用を足した。少し軽くなった身体に、かえって鞄は重い。彼はティッシュを一枚抜き取ると、粛々とくしゃみをぶちまけたのだった。