2013年10月28日

霧に思へり『幽霊船長』の言葉

いまから10年ほど前の話。
さる高名な詩人の方が講演を行っていた。
「私の根幹をなしているのは、大体10代の頃の読書体験ですね。その後に読んだものはあまり自らのものにはならないようです」。
たしか、概ねこのような内容の発言であったと思う。
その後、詩人の話は、「それでも読まないよりは読んだほうがまだいいので、なるべく様々な作品を読むことを心掛けて下さい」といった感じで続いていったような記憶がある。

その話を聞きながら、当時20代の半ばであった私は、
「ああ、年齢的にもう過ぎてるな……。」
と軽く落胆したことをおぼえている。

思えば、この詩人の話の通り、たしかに印象に残っているのは、ごく若い頃に読んだ本が多いようである。
この「書架の前にて」にしても、必ずしも「10代の頃」に読んだ本のみというわけではないが、20歳前後に読んだものが少なくない。

そして、今回の『幽霊船長』(文藝春秋 1987年)も、また20歳前後の頃に読んだものということになる。
この『幽霊船長』の著者は、河原晋也(1943~1987)で、詩人鮎川信夫(1920~1986)の弟子である。
はじめて目にしたのは、荒俣宏編『大都会隠居術』(光文社文庫 1996年)という、如何にすれば世俗(世間)を超越するかたちでの隠居が可能か、というテーマで選ばれた文章の中に抄出されているものであった。

内容としては、一応鮎川信夫の素顔の部分を描写したものとなる。
私生活を明かさなかった鮎川は、独身と公表しつつも実は妻帯者であり、殆ど廃屋のような住処で暮していたという。

この「幽霊船長」の最後の部分に引用されているのであるが、鮎川信夫の晩年の日録の1頁には、おおよそ次の旨の言葉があったという(以下は、日録の「概略」とのこと)。

「人生(ライフ)は単純なものである。人がおそれるのは、畢竟(ひっきょう)一切が徒労に帰するのではないかということであるが、人生(ライフ)においては、あらゆる出来事が偶発的(インシデンタル)な贈与(ギフト)にすぎない。そのおかえしに書くのである。正確に、心をこめて、書く。――それがための言葉の修練である」

はじめてこの言葉に接した時は、一体なんのことであるのか、よくわからず、そのまま素通りしてしまったのであるが、その後何度か読み返すことがあり、その内に徐々に重い意味を持つ言葉であるように思われてきた。

人生における一切は、「偶発的(インシデンタル)な贈与(ギフト)にすぎない」という認識。
これだけでも、一般的な考えとは相当に異なるものといえるはずである(無論、「偶発的」かどうかは私にはわからないが。「必然」であるのかどうかも含めて)。
さらには、そのあとに続く、「そのおかえしに書くのである」という言葉も、実に特異な考え方で、こういった驚くべき信念を自らの内に秘めていたというだけでも、鮎川信夫は、やはりありきたりの人物ではなかったということができるであろう。