能村登四郎百句

「咀嚼音」
老残のこと伝はらず業平忌
卒業歌ひろがりゆきて声くらし
影を売るごとく外套を売りにけり
鉄筆をしびれて放す冬の暮

「合掌部落」
汗ばみて加賀強情の血ありけり
シャワー浴ぶ体毛濡れて獣めき
白川村夕霧すでに湖底めく
小鳥売場よりみる屋上に夏くるを
白地着て父情ゆたかにあるごとし

「枯野の沖」
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
身ぶるひして鼻若くなる冷し馬
泳ぎつつ浮かびつつ思ふ夏逝くを
あえかなる涅槃図かかげ尼住めり
眩しみつ真先に穴を出し蟻よ
プールより出て耳朶大き少年なり
集まりてくらき熱気の受験生
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
初蝶にともなふ暗き記憶あり
泳ぎつつ摑むや青き岬の端
夏まけの妻おろおろと人なかに

「民話」
火が入りて闇がためらふ薪能
こまかなる光を連れて墓詣
鶏頭や仏間に入りし風死んで
梅雨の森見る遠距離をよしとする
枯山に僧ゐて枯るる香がのぼる
添へられし一信もなし能登毛蟹
おぼろ夜の霊のごとくに薄着して
初ざくら古り細りゆく帯巻いて
あまた蟹の眼に囲まるる蟹踏めば
菊を焚くうしろを通り声かけず

「幻山水」
水路より見ゆる家裏の盆支度
裸詣りひとり走りてみづみづし
うつうつと壺乾きゐる目借時
少しづつ動いて揺るる川景色

「有為の山」
薄墨がひろがり寒の鯉うかぶ
これやこの重く冷たき漬菜石
耳の日や耳のみ老いをのがれゐて
昨年よりも老いて祭の中通る
玄関のくらさを好み雪降り込む
一夜置く形代あさき夢もみて
裏返し白あたらしき寒鰈
寒畳よりくらきへとそそ走り

「冬の音楽」
鮎食べて齢ほのぼの兄おとと
病めばただけむりのごとき去年今年
溜息はどの石仏か木の芽冷え
ひだり腕すこし長くて昼寝せり
ごつくりと唾のむ音の蟻地獄
座持ちよき一人失ひ年忘れ
釣り捨てし小河豚が跳ねる南風
盗み鯉売りくる男枯れの中

「天上華」
すこしくは霞を吸つて生きてをり
滝行のすみし火照りとすれ違ふ
秋祭終り用済みの老人たち
暗きより暗きにもどる除夜詣
一度だけの妻の世終る露の中
魂までとろける朝寝してみたし
逃げ水に逃げられて逢ふ美僧かな
今も世に絵踏のことのなくはなし

「寒九」
鳰浮巣編みあまるもの漂へり
はるかより怨まれてをり飯饐ゆる
すつ飛んでゆく形代は我のもの
一撃の罅が罅よぶ夏氷
くらき世をたぐり寄せたる手毬唄
季(とき)すぎし西瓜を音もなく食へり
遊び着を買ふ秋麗にさそはれて
まづ籠の青さがよけれ蟹とどく
男同志もいいなあと見て松の花
菊人形裏に菊師のまだをりて

「菊塵」
走り出して遠足の列伸びつぱなし
しばらくを握らせて貰ふ囮鮎
瓜人筆「芋の図」を掛け無月なり
本多平八郎絵姿の花疲れかな
セロテープ飴色のばしたる晩夏
今思へば皆遠火事のごとくなり

「長嘯」
霜掃きし箒しばらくして倒る
妻死後を覚えし足袋のしまひ場所
ありあまる時間の中に浮巣見る
泳ぎつつすこしわが前魂あそぶ
まさかと思ふ老人の泳ぎ出す
ひろがらず消えたる冬の水輪かな
妻がゐて湯婆入れてくれし夢
わが他に老人のゐぬ年忘れ
次の世は潮吹貝にでもなるか
初風呂にまだ泳げると泳ぎけり
亀鳴くや亀の旧字はもう書けず

「易水」
秋草の束秋草で結びあり
水踏んでゐるさびしさの立泳ぎ
露なめて白猫いよよ白くなる
雪女男運なく消えにけり
白地着て行くところみな遠からず

「芒種」
猫と猫恋なきごとくすれ違ふ
熱帯夜いつ目覚めても我がゐて
うららかや長居の客のごとく生き

「羽化」
夏痩せて鏡の裏を通りけり
弓なりに道曲りけり秋の暮
初明りつめたき匂ひあるがよき
春の沼何かゐるらし水ゑくぼ
よたよたと行く江の電や春の海
秋蟬や少しづつ我ほろびゆく
中村歌右衛門逝く
行く春を死でしめくくる人ひとり