2017年10月30日

露霜や嵐山まで眼鏡して

私が体験しえなかった「沖縄戦」、「沖縄の戦後」を詠んだ句の、そのほんの一部を読んできた。これらの試みは、「俳句史」なんかに寄与することではなく、拾い読むことを通して聞くことに他ならない。その句が「良い」とか「正しい」とか、問われるためではなく、ただただ手渡され、「正しく」読めたかさえ怪しいまま、解決されずに宙吊りにされ、残り続けることが重要なのである。それがいつか、尤もらしく話される流暢な言葉を躓かせたり、沈黙の糸口である疑惑の、その更に細い糸口として意識をからめとってくれればよい。