【2】金魚の荷嵐の中に下ろしけり  久保田万太郎

祖母が母のために誂えた着物というのが、我が家の箪笥には溢れるほどあり、もう着物を着る機会のなくなった母の代わりにその着物を着るのは三姉妹の中でも長女の喜代子の役目だった。勿体ないということもあるが、喜代子は洋服よりも着物が好きで、機会があれば着るようにしていたのだ。
妹達はやはり着物は面倒だし苦しいと言い、着る機会は花火大会にデートで浴衣を着るくらいだろう。それはそれでいいと思っていたし、自分が選び放題の環境を気に入ってもいた。
その、花火大会が今日だった。妹達が選んだ浴衣を着つけてあげるのは、喜代子の役目。クーラーをつけた部屋にも関わらず、汗だくになって着つけた。喜代子はクラシカルな浴衣が好きで、帯の結び方を多少遊ぶくらいだが、妹達はやはり流行りの浴衣がいいようだ。半兵児帯とかいう、薄く、てかてかしている布を帯の飾りとして巻いてくれと頼まれ、どう巻くのか携帯で調べながら着付けをしてあげた。ああいうのが流行っていて人気なのはわかるが、好みじゃない。けれど、彼女らの趣味を否定する気はないし、自分は自分で好きなものを着ればいいと思っている。妹達を見送り、汗が引いたころで自分も浴衣を着る。喜代子は去年離婚し、今年の花火大会はデートの相手もいないしと、行くつもりではなかったのだが、金魚がほしくなったのだ。花火大会の会場には、出店がたくさん出るはずだ。
一人で焼き鳥にビール、それを想像するだけでワクワクしてきた。
玄関に出ると、自分の下駄がなかった。たぶん、妹のどちらかが間違えたのだろう。妹の下駄は喜代子の足には少し大きい。自分の古いものを下駄箱から引っ張り出した。
夕暮れの空には黒い雲が浮いていた。大丈夫かしら、と不安になりつつ、一瞬だし大丈夫かと楽天的に家を出た。近所の花火大会は、県内でも有数の大きさなので、人がたくさん集まる。知り合いに会うのも億劫だから、すぐ帰ろうと思ったら、さっそく高校時代の同級生グループが見えた。仕方ない。大して店にこだわりはなかったので、手近にあった金魚すくい屋の前にしゃがんだ。
「一回」「はいよ」という淡白な会話をし、道具を渡された。そこの金魚すくいは、ぽいではなく、もなかでやるものだった。これなら、掬えるかも。と中ぶりの綺麗な橙色の金魚を狙った。しかし、もなかに持つところとして刺さった針金の刺さりがあまりにも浅く、すぐに重みで落ちてしまった。「えー・・・」と小さく文句を呟く。普通のポイの店に行くか迷ったが、その金魚が気になるので、もう一回やることにした。店主の見ていないところで、ぐっと針金をもなかに刺した。そうすると、たやすく掬うことができた。ちらっと店主が睨んできたが気にしない。一匹で十分なので、その場から離れることにした。
金魚すくいの店を離れると、すぐにぽつりと水滴が額に当たった。
ビールは家で冷えているから、焼き鳥!とうもろこし!と、急いで店を回ったが、家に着いた頃にはすっかり濡れてしまった。誰もいないリビングに電気をつける。金魚をまず置こうと思ったが、ビニール袋の柔らかさが邪魔をして、下手におくとつぶれて水が浅くなってしまう。少し見渡して、適当なフックにひっかけた。
洋服に着替えて、金魚を水槽に移そうかと思ったが、壁のフックに引っかけられている金魚は妙にシュールで面白く思えてきた。橙色の尾は水の抵抗をうけ、揺れている。このまましばらく見ているのも悪くないなと、喜代子はいい音を立てて、缶ビールを開けた。

『こでまり抄』(ふらんす堂 1991年)より