【3】春は名のみの隠すべき尻尾欲し 池田澄子

狭い部屋の中で、今、春は目覚めたが、そのことをまだ春自身は知らない。目覚めたばかりの春に、私は「お前は『春』なのだよ」と伝える。春は、それでもいまいちよくわからないといった表情のまま、ぼんやりと座っている。
思えば、前の春は随分と自信家でわがままだった。そして、美しかった。今、目の前にいる新しい春は、少し野暮ったい。ようやく私を認識して、にこりと笑った。
不思議なことに、春は必ず女である。私が始まる前にもし春が存在するのならば、それが確かかはわからないが、私が始まってからは、春はいつも女であった。
ようやく生まれたことを認識したのか、春の頬が少しずつ赤らんでゆく。
何か食べたいものがあるかと聞くと、小さく首をふった。何だか、可愛く見えてきた。あと少ししたら言葉も話しだすだろう。
これだけぼんやりした春は初めてだ。今年は風の弱い年になるかもしれない。
春は、私を指さした。その指をつかむと、くすくすと笑う。
「なまえは?」
突然声を発してきたので、少し驚く。
「名前はないのだよ、私も君も」
「わたしも?」
「そう、君も」
「でも、あなたはさっき、わたしを『春』といった」
「それは、種類であって名前ではない」
「しゅるい」
「そう、種類。本当は他の種類には名前があるのだが、『春』にはない」
「『春』だけ?」
「そう、『春』だけ」
少女はどんどんと言葉をのみこんでゆく。先程からすごい勢いで成長し、もうしっかりと座っている。
「それじゃあ、あなたは何の種類なの?名前はないんだよね」
「私は『夜』だ。長い間『夜』を務めているから、皆私を『夜』と呼ぶ。だから、お前も私を『夜』と呼べばいい」
「なぜ『夜』は長い間『夜』なの?なぜ『春』は新しくなるの?」
「毎日『夜』をやることよりも、約3カ月『春』を何年もやることの方が消耗するんじゃないかな。それに、夜は意外と休みが多い。ほら」
ノックが3回鳴った。
狭い部屋全体に大きく響くノックに春はびくんと震える。
「『朝』が迎えにきた。『朝』は長生きしているから、いろいろな話を知っている。たくさん話を聞いてきなさい」
「また『夜』にも会えるのね?」
「今日のうちに生まれ変わりが決まらなければ」
春はにこりと笑った。
「わかったわ、ちょっと行ってくる。また会えたらそのきらきらの尻尾、触らせてね」
「これは、尻尾という名ばかりのふさふさだ」
春はくすくす笑う。

狭い部屋にゆっくりと光を押しこんで朝が春に手をのばし、春が朝の手をとった。
「くしゅん」
春がくしゃみをした。これが春一番となるのだ。
前言撤回。今年も元気な春となるだろう。

『たましいの話』(2005年 角川書店)より。