【5】襖しめて空蝉を吹きくらすかな   飯島晴子

祖母が亡くなってから三年が過ぎ、その家には誰も住まなくなった。かつては同じ町のすぐ近くに住んでいた両親も今は東京郊外に家を建てているので、北の田舎のその家を管理するには難しく、取り壊すことを決めた。貴美子も東京で働いて一人暮らしをしていたが、祖母の家が大好きだった。私が住むからと言ったものの、両親は反対した。貴美子が独身のままでも小言も言わなかったのは、貴美子が東京で自分の好きな仕事を一生懸命していると思っていたからだ。その仕事を投げてまで、その家を残したいとは思っていないようだ。加えて両親は、というより、母は特にその田舎が嫌いなようだった。
「誰々がどうしたらしい。誰々のお嬢さんはどこの誰々と結婚して、こんな暮らしをしているらしい。集まればそんな話しかしない。小さなサークル内の情報を正しいと思って余所者を受け入れない。何が楽しくて、何が好きでこんな田舎」
小さい頃からそう聞いて育ったので、貴美子自身、そこに思い入れはあまりなく、同窓会などの帰省はするものの、自分の帰る場所ではないと思っていた。かと言って、東京を帰る場所と決めているわけでもなく、いつか夫となる人の故郷を愛おしめることができればいいなと、少女のような夢を描いていた。
せめて取り壊すまでの間、その家に住むことを許可してもらった。
東京よりも少し季節が進んでいるなと感じるその土地は、夏のはずなのに、もう秋風が吹いているのかと思うほど涼しい。庭は祖父が事業をしていた為、とても広いものだった。日本庭園があれば、薔薇園があり、畑がある。かつては烏骨鶏の鳥小屋もあった。祖母の家は日本家屋で、古い作りをしているから、住むのは住みにくいと思う。リフォームをしてまで残しておくメリットはないと両親は思っているのだろうが、貴美子には家より、この庭だった。
祖母が生前頼んでいた、近くの農家の人が好意で手入れをしてくれているのだろう。放置されているにも関わらず、芝生は刈られ、木々も手入れが施され、次の季節を待っているようだった。
預かった鍵で家に入り、窓を開ける。こもっていた空気を入れ替え、明るいうちにと布団を干した。簡単に掃除をしなければと、エプロンをつけ薄暗い廊下に電気をつけると、廊下に蝉の抜け殻を見つけた。
「ここに空蝉って、成虫は・・・」
と嫌な予感に襲われつつ、抜け殻をエプロンのポケットにしまい、掃除機をかけ始めた。
貴美子が帰ってきたことをどこから聞きつけたのか、近所の人がたくさん差し入れを持ってきてくれたので、夕飯を買いに行く手間が省けた。
「本当に、見張られているみたい」
そうつぶやきながらも、障子を開けば見える月に満足な気もした。
貴美子は本当は積極的な性格なわけでもなく、こうやって家の中にいることが好きだった。雰囲気から明るい人と判断されるため、あまりそうは思われないようだが、できれば一日中こうして家の中でぼーっとしていたかった。両親の言う貴美子の仕事だって、若いうちはやりがいなどを求めてがむしゃらにしていたが、あることがきっかけで一気にやる気が失せたのだ。
貴美子はうんと年上の男性と不倫をしていた。二十代をほぼ不倫に使ってしまった。友人からは「そりゃ不倫男は優しくできるよ。責任も何もあなたに持ってないんだから。奥さんがいるのに自分を選んでくれているという背徳感はわかるけど、時間の無駄よ、無駄」と言われることが多かった。仲の良い飲み友達の裕美に、相手に奥さんと別れてと言ったと相談すると「いやいや、別れてくれるならもともと別れた状態で付き合ってくれてるから」と笑われた。彼女は地元も一緒の友人で、結婚しているしこどももいる。少し大きくなったこどもを旦那さんに任せて時々付き合ってくれるようになった。裕美を見ていると、自分が前に進んでいない気がして辛い。正論ばかりぶつけられて辛くなってここ数か月会っていない。
十年近くその不倫相手と付き合ったのに(裕美に言わせると、不倫は「付き合った」うちに入らないらしい)、先月初めてその家族とばったり会ってしまったのだ。その時の顔を見て、この人が私だけのものになる日なんて来ないのだということをはっきりと悟った。馬鹿なのかもしれないが、いつかいつかと思って期待していた自分がいたのも確かだったのだ。どこかに消えてしまいたくなり、この土地に逃げて来ることができたのは本当にタイミングが良かった。
月の見える縁側に座り、少し日本酒を飲む。祖母の漬けた梅干しが残っていたので、それをちびちびと舐める。
「あ」
雨戸の淵に、蝉の死骸を見つけた。昼間見つけた空蝉の主だろう。
外に出られずに終わってしまったのだな。
ティッシュに包んだ。エプロンのポケットから空蝉を出すと、糸くずが足に絡まっていた。ふっと吹いてやると、空蝉ごと飛んでしまいそうな音がした。一緒にティッシュに包んでやる。
明日、庭で一番大きな木の下に埋めてやるつもりだ。