【10】秋晴れや「荒城の月」合唱す     孤蓬万里

孤蓬万里編著『孤蓬万里半世紀』(集英社、一九九七)の一句。孤蓬は台湾に住む人々の短歌を収めた『台湾万葉集』で第四四回菊池寛賞を受賞しているが、本作は『台湾万葉集』『台湾万葉集 続編』に続く第三作目であり、このシリーズの完結編として編まれたものである。前半に自伝「孤蓬万里半世紀」、後半に「『台湾万葉集』補遺」を収めている。

孤蓬万里(本名呉建堂)は一九二六年台北に生まれた。台北二中に入学後、国語科の川見駒太郎に和歌日記をすすめられたことで短歌をつくりはじめたという。その後台北高校で犬養孝による万葉集の講義を受け、一九六六年には第一歌集『ステトと共に』上梓している。翌年台北短歌研究会(のち台湾短歌研究会)を発足、さらに次の年には「台北歌壇」(のち台湾歌壇)第一輯を発刊している。

孤蓬は第一歌集上梓の頃を本書で次のように振り返っているが、台湾における戦後の短詩型文学のありようを伝える貴重な証言であろう。

 戦後、日本人が引き揚げると日常生活から日本語は急速に駆逐された。経済不況から文学どころではない真空状態が十年ほど続く。中国文学が漸次庶民に及び、漢詩等は隆昌の一途をたどる。しかし、一個人にとって幼少の頃から馴染んだ言語は、その思想形成に影響が大きい。台湾人で現在六十五歳以上の人たちにとって、日本語は一生のうちでもっとも自分の情操生活に寄与した言葉となっている。二十歳前後になってから学んだ中国語は、どうしても文学的素養となるには質量ともに不足である。いわゆる「過渡期を克服した人々」といわれる一握りの人たちを除いて、外省人に伍して中国文学を今さらやっていくだけの覚悟がわいてこない。一九五五年ごろから「文学に国境はなし、短い一生のこと、外国文学として日本文学をつづけるにしかず」という気風が生まれた。小説・戯曲は時間がかかるし、手っ取り早くアマとしてもやれる短文芸に目がつけられる。日本在住の昔の恩師や友人をつてにして短歌や俳句の結社に属したり、大衆雑誌に投稿したりするのが現れた。

台湾では一九六〇年に黄霊芝を主宰として台北俳句会が成立している。孤蓬は「会員の八十パーセントは「台北歌壇」と重複している」と指摘しているが、黄霊芝もまた台北歌壇のメンバーであった。孤蓬もまた台北俳句会に参加しており、多くの俳句を残している。表題句はそのうちのひとつである。

「荒城の月」(土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲)の歌詞には「天上影は替らねど/榮枯は移る世の姿/寫さんとてか今もなほ/鳴呼荒城の夜半の月」とあるが、孤蓬の句からはこうした世の中の移ろいを思いつつ「合唱」する人々の姿が立ちあがってくる。そしてその「合唱」の輪の中に孤蓬の姿もまた認められるように思われる。そういえば孤蓬には「教へ子ら歌ふ「仰げば尊し」に師の合唱し涙を拭ふ」という一首もある。これは孤蓬が松山公学校の五、六年生であった頃の担任教師が三〇年ぶりに台湾を訪問し孤蓬らと再会した際のことを詠んだ歌であった。

これらの俳句や短歌をたんに懐旧の念を詠んだものとして片づけてしまうのは早計であろう。肝心なことは、ここで孤蓬が「荒城の月」「仰げば尊し」といった「唱歌」を「合唱」するという行為を切実なそれとしてとらえているということである。「日本語は一生のうちでもっとも自分の情操生活に寄与した言葉」だといい、「日本語のすでに滅びし国に住み短歌詠み継げる人や幾人」と詠んだ孤蓬である。ならば、「すでに滅びし」言語としての「日本語」の「唱歌」を「合唱」するという身体を共有しうる彼らにおいて、「荒城の月」「仰げば尊し」といった「唱歌」が懐旧の念を想起させる装置として作動していくとき、そこに去来する懐旧の念の内実にこそ僕たちは注意すべきなのだろう。そしてそのような彼らの身体や「唱歌」のありようを考えることは、「唱歌」を「合唱」する姿を、「日本語のすでに滅びし国」の「滅び」ゆく詩型としての俳句や短歌によって詠んだ孤蓬の営為について思考することと無縁ではない。

渡辺裕は西洋の音楽文化にとっての一八世紀後半から一九世紀を「「自律化」の時代であるとともに政治的なコンテクストの中で音楽の果たす役割がきわめて大きくなった時代」と指摘したうえで、こうした音楽の政治化の動きの中心をなしたものとして「合唱の文化の発展」を挙げている(『歌う国民』中公新書、二〇一〇)。日本における「唱歌」の成立もまたこうした意味での「合唱」にふかく結びついたものであった。一方で渡辺は「唱歌」について「「近代以前」を生きていた多くの人々が、明治になって次々と現れてくる、初めて目にした西洋モデルの思想や制度の流れに対応しようと苦慮している様子が伝わって」くるといい、「唱歌は、そういう状況下、人々が近代化された社会の中で均質的な「国民」となってゆくための欠かせない装置として機能した」と述べている。渡辺はまた「「官」も「民」も、皇国史観に直接関わるものもそうでないものも、いろいろ含めて様々な人が様々な立場からかかわりあう場において、様々な力が働きあうなかで、結果的に「国民」が形をなしてきた」ともいう。いずれにせよ、「合唱」や「唱歌」は国民国家の形成に重要な役割を果たしてきたのであって、「荒城の月」や「仰げば尊し」を歌う孤蓬らの身体(あるいはその身体的記憶)とはそのような文脈において形づくられたものであったろう。そしてこのことは、「仰げば尊し」の作曲や唱歌集の編纂などで知られる伊沢修二について次のように詠む孤蓬にあって、とりわけ重要な問題であるように思われる。

日本文化侵入の血と芝山厳の神社毀たれ公園と化す

「学務部員遭難の碑」は横倒し日本政府の回収を待つ

教育の鬼と言はれし伊沢修二 台湾教育に自ら手を染む

台湾の一国小の百年祭 日本人来賓が百人を越す

 (「国小」は国民小学校のこと―原文注)

恩讐を越えて日台両国の衆が「仰げば尊し」歌ふ

伊沢修二は日清戦争後の台湾に学務部長心得として赴任し「台湾人の教化」に大きな役割を果たした人物でもある。だがここで注目したいのは、そのような伊沢の役割自体ではなく、そのような伊沢を孤蓬がどのような文脈において語っているかということである。

纏足を免れた母は、一九二一年、この学校(士林公学校―引用者注)の第二十回生として卒業している。一九九五(平成七)年六月一日に、士林国小創立百年祭が、母校と芝山厳の両地で行われ、筆者は車椅子に母を乗せて式典に参列させた。この学校が、日本統治後台湾に初めてできた学校で、芝山厳学堂→国語学校第一附属学校→八芝蘭公学校→士林公学校→士林国民学校→士林国民小学と名称は目まぐるしく変わる。しかし、創設者は、伊沢修二と学校に明記されてある。(略)

文藻の地、八芝蘭の近くに屹立した丘があり、芝山厳といわれて、開漳聖王を祀る恵済宮という廟があり、昔、漢学者が開いて子弟を教育したと聞く。これこそ理想の地と開いたのが、台湾初等教育の濫觴である「芝山厳学堂」であった。(略)

学堂に入学した最初の学生は、柯秋潔・潘光櫧・潘光楷・潘光明・潘廼文・陳兆鸞の六人であった。潘姓の四人は筆者の母の大叔父に当たる。十月二十九日、修二は北白川能久親王の遺骸を奉持する樺山総督の伴をして、西京丸で内地に帰った。その留守中の一八九六年一月一日に、土匪の蜂起で、上記六人の先生が無残に虐殺される事件が起こる。これが「六士先生遭難事件」である。その七月一日に、総理大臣伊藤博文を島に迎えて、六士を祀る祭典を行い、「学務官僚遭難之碑」が建てられた。この日は、のちに建てられた芝山厳神社の裏にあったが、戦後蒋氏政権によって神社は毀たれて公園と図書館になる。碑は公園の側に横倒しになっていた。

日本統治下の台湾をどのようにとらえるかという問題は、孤蓬にとって、自らの血脈をどのようにとらえるのかという問題と深くかかわっている。とすれば、『孤蓬万里半世紀』の序文を書くにあたって、孤蓬の恩師である犬養が次のように書くことから始めざるをえなかったことも肯けよう。

 呉建堂の新著に序文を書くに当たり、最初に書かねばならぬことがある。呉君の歌の一首に、

  一族にジャパニーズ、チャイニーズ、メリケンあり 右翼 左翼と論戦わす

とある。呉君は淡々と述べているが、戦争になって、それが敗けて今日のような状態となった。ジャパニーズ、チャイニーズ、メリケンと運命はこのように一族を色づけた。誰もどうすることもできぬ。呉君よ、われわれの力でどうにもならぬことだけはわかる。あんなに一生懸命だったジャパニーズの呉君が、チャイニーズになろうとは。運命と思って、さらりと時局に流してくれ。その詫びを言って、はじめてペンが取れるのだ。

ここで、四番からなる「荒城の月」の歌詞をあらためてふりかえってみたい。

春高樓の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし
昔の光今何處

秋陣營の霜の色
鳴き行く雁の数見せて
植うる劔に照りそひし
昔の光今何處

今荒城の夜半の月
替らぬ光誰がためぞ
垣に殘るはただかつら
松に歌ふはただあらし

天上影は替らねど
榮枯は移る世の姿
寫さんとてか今もなほ
鳴呼荒城の夜半の月

「昔の光」に「ジャパニーズ」としての孤蓬のかつての日々を重ねることは深読みに過ぎるだろうか。しかし僕にはこの句が、日本統治下において「荒城の月」という「唱歌」を「合唱」するという行為がいまやかつての自らの身体をなぞるものとしてのそれへと移ろっていったさまを詠んだものであるように思われるのである。それはまた、自らの―そして自らの持つ血脈―来し方を確かめ、あるいは慰撫し、あるいは慨嘆する行為でもあっただろう。そして、そのような自らを日本語による詩形式によって詠みえたということに、僕は孤蓬にとっての詩歌の来し方をも思うのである。

孤蓬は短歌に手を染めた中学時代に次の歌を詠んでいる。孤蓬の歌としては、おそらく最初期のものであろう。

富士のの清きを己がにして短き生命の道をぞ行かむ

この歌について、孤蓬は次のように記している。

新しい日記に早速一首書き入れてみるように言われ、富士山の遠景が第一ページにあったので、それに題して前記「富士の嶺の」の一首を書いたら、「なかなかませた歌だね」と笑いながらほめてくれた。

すでに孤蓬はかつての自分をこのように振り返ることのできる地点にいる。かつての自分とは、印刷された「富士山の遠景」を見て「富士のの清きを己がにして」と詠むことのできた自分である。この若き日の孤蓬はまた「荒城の月」を歌う「ジャパニーズ」としての孤蓬でもあったろう。「短き生命の道をぞ行かむ」とその清新な志を自らの将来へと投じてみせた「ジャパニーズ」が古稀を迎えたころ、日本語による詩形式は、滅びつつ、しかしどこまでも自らに寄り添うものへと転位していたのであった。