【13】梨の芯抛げ一些事に執着す     遊子

石原吉郎『石原吉郎句集』(深夜叢書社、一九七四)の一句。同書は石原自身の句のほか「自句自解」、句評「他人の俳句から」、評論「定型についての覚書」「賭けとPoesie」「俳句と〈ものがたり〉について」を付す。表題句は「他人の俳句から」でとりあげられている一八句のうちのひとつである。石原が本書で見せている句評には辛口のものが多いが、表題句に対してはとりわけ辛辣な評を添えている。

 僕はこういう句に最も反発する。大正以降の人事句が何度も落ち込んだエアポケットの見本のようなものだ。上手、下手をいう前に自己のペースを真向からきめてかかるその態度、現実に対する能動的な働きかけを失ったその姿勢をまず強く指摘すべきであろう。

これほどの「反発」を表明するのは、自らの状況と「課題」に対する次のような認識を持つ石原であってみれば、至極当然のことであったろう。

他者の運命がただちに自己の痛みと責任とはなりえないということは、二つの大戦を経験し、無数の殺戮を無造作にくり返して来たあとで、僕らが到達せざるを得なかった、きわめて特徴的な状況であるといえる。端的にいうならば、このようにして失われた痛みと責任の回復ということが、戦後の文学を通じて僕らに与えられた実存的な課題であるといってよいであろう。(「俳句と〈ものがたり〉について」)

石原は俳壇に流通する社会性俳句という名称を「ずさんなレッテル」とも評しているが、そうした「ずさんな」名で括られた俳句の書き手と同じ時代を生きつつ、しかし独自の深度をもって戦後を生きていたのであった。

ソ連軍によって抑留された石原は一九四五年にインドに近いアルマーアタへ送られた。石原が俳句の手ほどきを受けたのはこのときである。その後しばらくの中断期を経て、一九五〇年にハバロフスクへ送られてから句作を再開している(「俳句と青春」『俳句』一九七七・七)。その後再びの中断期を迎えるが、一九五八年に佐々木有風主宰の「雲」に拠ってもう一度句作を始めている。

晩夏光脂を皿に享けて立つ

毬買ふや死者より遠き冬の山

暮春の無為ナポレオンのごとき鯣を買へ

老女の舌かがやき氷菓霊のごとし

蝙蝠交る夜をこめ華麗に帝王切開

ひだり眼に棲む秋右の眼へ移る

絶叫や柘榴の傷はもはや癒えず

凍天や踏まるるための足の甲

いちご食ふ天使も耳を食ふ悪魔も

われおもふゆえ十字架と葱坊主

    ハバロフスク

囚徒われライラックより十歩隔つ

戦後において石原が俳句に携わっていたころ、俳壇では「社会性俳句」がすでに過去へと送りこまれながら、一方で「前衛俳句」が取り沙汰されるようになっていた。石原の俳句評論を今日顧みるものがどれだけあるかは知らないが、僕は一九六〇年に発表された「定型についての覚書」は当時のどのような定型論よりも優れた一編であると思う。

 誤解を避けずにいうなら、俳句は結局は「かたわな」舌たらずの詩である。ということは、完全性に対する止みがたい希求と情熱が、俳句を成立たせる理由と条件になっており、その発想法の根拠となっていることを意味する。しかも、この希求がみたされるということは、俳句がついに俳句であることをやめることでなければならない。それが、完全性への希望を断ち切られた姿勢のままで立ちつくそうとするとき、俳句のあの独自な発想法が生れ、それがかたわであるままで、間髪を容れずもっとも完全であろうと決意するとき、句作はこの世界のもっとも情熱的ないとなみの一つとなる。「自由」な現代詩は、このようなパラドキシカルな苦悩と情熱を知りもしないだろう。(略)

 結論をさきにいっておこう。僕らは定型に対して、常に不安でいなければならない。それは、定型に不安を抱いている者こそ、定型に対して生き生きとめざめているものだからである。定型に安堵し、これにもたれるだけの詩人、十七音字の枠にもはやなんの不安も抱かぬ者は、もはや「定型詩人」ですらありえない。そこでは、最も重大なことがすでに喪われている。彼が定型をうしなったか、定型が彼をうしなったか、おそらくはその双方であろう。

 定型は「不断に」これを脱出するためにある。定型の枠が存在することによって、はじめてこれに対する抵抗がうまれ、脱出するための情熱と、圧縮されたエネルギーがうまれる。いわゆる自由な詩形が「自由でしかありえない」ゆえんは、それが脱出すべきいかなる枠をももたない点にある。今日、前衛俳句の作家たちが、依然として定型詩人であるといわれるその根拠はどこにあるか。それは、彼らの抵抗に意味を与えるものがまさしく定型であるからであり、定型がうしなわれるとき、その抵抗は意味をうしなうからである。いうなれば、彼らの抵抗は定型によってささえられているのである。このような意味で、彼らは既成のいかなる俳句作家にもまして「定型詩人」なのであり、明確に定型に向ってめざめているものだといえるであろう。彼らが、みずからはげしく俳句作家であると呼ぶ理由は、このような側面においてであり、前衛俳句はつまるところ詩であって、俳句ではない(その発想法は別として)という奇妙な主張は、前衛作家たちのこのようなあり方に対する無理解から来るものだということができる。

詩人にせよ俳人にせよ、定型についてこれほど鋭い認識をもっていた者は、当時ほかにどれだけいたのだろう。しかし僕にとってもっと大切なことは、これほどの認識をもちえた石原が、その生涯においては俳句形式による表現をほとんど選択することがなかったということである。これは、石原がその晩年に次のように書いているのを知るならば、ますます重い問いとしてのしかかってくる。石原は一九七六年にアルコール中毒症で入院した際、三日間で三〇首の短歌を制作したことがあったが、そのことを次のように記している。

ただその三日間は、私は私なりに必死な三日間でした。ただその必死さは、決して他人には伝わらない。一人っきりの文字どおりの孤独な戦いだからです。戦う者も戦う相手も私自身だからです。そして、四日目に、病状が恢復に向い出した頃、作品が急速に衰えて来たのに気づいて、一旦作歌を打切りました。

その間、私が書きつづけたのは全部短歌です。俳句も詩も、ましてや散文もまったく書けない。なぜ短歌しか書けなかったかということを、あとからいろいろ推測してみて、おぼろげながら気づいたことは、短歌には「かたち」―形式とその展開があるということであった訳です。結局「かたち」によって危機に対応して行くということは、日本人にはついに避けられない姿勢なのではないか。(『一期一会の海』日本基督教団出版局、一九七八)

一方で石原は俳句について次のように記している。

むろん、俳句にも「かたち」はあります。だが俳句は発想がそのほとんどすべてであって、その後の情緒の展開というものをほとんど拒んでいる。それが、私のような場合、本能的に短歌をえらばせたのだと、私なりに考えたわけです。

つまりその時の私には、発想ということで自分自身のすべての姿勢がきまるとは信じられなかった。ある程度、最小限の情緒の持続がどうしても必要だった訳です。それは、戦中、戦後を通じて私が置かれた条件にもつながるだろうし、私自身の性格にも結びついているだろうと思います。(前掲『一期一会の海』)

石原にとって俳句形式が自らの表現の拠り所とならない場面があったということに、僕は高柳重信のいうそれとは違う意味での「敗北」を思うのである。思えば戦前においても石原は俳句を一度手放していた時期があった。すなわち、石原自身のいう「淘汰」の時期である。

私は昭和二十四年から二十五年にかけて、バイカル湖西方バム鉄道沿線の密林地帯で、二十五年囚としての刑に服した。この時期は私たちにとって、入ソ後二回目の<淘汰>の時期を意味した。最初の淘汰は、入ソ直後の昭和二十一年から二十二年にかけて起り、長途の輸送による疲労、環境の激変による打撃、適応前の労働による消耗、食糧の不足、発疹チフスの流行などによって、八年の抑留期間中、もっとも多くの日本人がこの期間に死亡した。またこの期間は、何人かの捕虜と抑留者が、自殺によってみずからの死を例外的にえらびとった唯一の期間でもある。(「確認されない死のなかで─強制収容所における一人の死─」『現代詩手帖』一九六九・二)

この二度の「淘汰」を経て、ハバロフスクに移った石原はアルマーアタのメンバーとともに句会を再開している。これについて渡辺石夫は次のように述べている。

シベリア各地の収容所を経てハバロフスクに移されて、すぐには労働できる状態ではなかった。そのときはパンを得て飢えをしのぐということが最もさし迫った問題だったと思うんだけど、一定の体力が回復すると労働に回されるわけです。ちょうど、体力の回復と並行して、抑留者に表現の欲が出てくる時期がきた。(清水鱗造、渡辺石夫「石原吉郎 没後四年」『毒草』一九八一・八)

石原にとって俳句制作が「体力の回復と並行して」行われたという指摘は看過すべきではあるまい。もちろん、この中断を晩年のそれと同列に論じることはできないだろう。そして、石原が精神的な危機や肉体的な危機にたったとき俳句形式から遠ざかる体験を持ったということは、どこまでも石原個人の問題として考えるべきであろう。だが、そのような体験を持つ人間がいたということは、すでに俳句形式の問題であるように思う。人間は生きるために俳句形式を選択しないことがありうる。ひとりの人間の危機において俳句形式がついに呼び寄せられることがなかったという事実と僕たちが対峙することは、しかし、俳句形式を見限ることとはちがう。むしろ、僕たちが俳句形式に何らかの夢を見ることができるとすれば、その夢とはおそらくこのような形式への羞恥から立ち上がってくるものではなかろうか。