二日会『俳句の仲間』(永田書房、一九七九)の一句。二日会については「あとがき」で「昭和三十三年正月二日南星庵に/うかがったのがはじまりで/「年賀はともかく句会にしよう」と/云うことで毎年欠かさず初句会を/二日にひらくことになり/年に四五回の吟行を重ねている」とその起こりが記されている。また、メンバーのひとりである小倉紫好は「その濫觴は鉄道会館社員が岡村浩村子を師として作った八重洲句会であり、その一部の人々が八重洲句会とは別に、竹内南星氏を軸として社外の句友も加はり、俳句を楽しむ会を始めたのが、昭和三十三年秋の中津川渓谷に吟行した時からである」とも述べているが、ようするに、昭和三三年正月二日に南星庵に集った人々に八重洲句会のメンバーが加えたかたちでできあがったのが二日会であったのだろう。本書はこの二日会のメンバーのうち一二名(唐沢動火、竹内南星、松岡素牛、下田実花、富田無象、岩永極鳥、鈴木北伸、蒲生院鳥、三原田タケ、柳沢冬薇、小倉紫好、吉田竹晏)の作品(一〇〇句)をまとめたものである。
めりはりもわきて紫好の初披講 竹内南星
熱燗の句座なりゆたに座に着かな 同
初句座をのぞき見をして鳶のもの 松岡素牛
言ふことを言ひて涼しく句座の酒 柳沢冬薇
巻末の編集後記で永田書房主人の永田龍太郎が「ここには師もなければ、弟子もありません」と述べているが、「言ふことを言ひて涼しく句座の酒」とはそうした二日会の句座の雰囲気をうかがわせる一句である。一方で、次のような句もある。
秋惜しむ句座の一人は膝を抱く 鈴木北伸
全体に明るさを湛えているこの句集において「膝を抱く」「句座の一人」へと眼差しを向ける鈴木の作品はどこか陰鬱な表情で佇んでいる。
左義長や闇の底なる相模灘
涅槃図の近寄りがたき暗さかな
睡蓮や辺りを暗くして咲きし
手花火の終りし闇を置き去りに
鈴木の句にくりかえしあらわれるこうした「暗さ」や「闇」を思うとき、ふとこの句集において、(戦時下のジャワ島での男女の恋愛を描いた小説「火炎樹」を寄せた吉田竹晏を除けば)戦争の記憶を手繰り寄せつつ詠っているのもまた鈴木ひとりであったことに気づかされる。
成人の日や徴兵の日もありし
南風吹くやふと口ずさむ従軍歌
ジャワ島のここにもありしねこじやらし
いずれこの連載で『特攻隊遺詠集』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編、PHP研究所、一九九九)をとりあげるが、それに関連して先日『特攻体験と戦後』(中央公論社、一九七七)なる一書を通読した。島尾敏雄と吉田満の対談を収めた同書の刊行年は偶然にも『俳句の仲間』のそれとほぼ同時期であるが、その巻末において吉田満が次のように記しているのに目がとまった。
私は平均的な学徒兵であり、平凡な戦士であった。太平洋戦争末期に戦場にかり出された無数の青年のなかの、ごく目立たぬ一人であった。ただ、あたえられた経験が、特異だったに過ぎない。一つの時代、ひとつの民族を象徴する悲劇的な体験が、課せられたのである。
わたしの戦後生活も、当然に、戦争経験世代の典型的な場合というべきものであった。ただ、異常な戦争体験の重さが、わたしを捉えて離さなかったのだ。私は多くの仲間を死なせた生き残りの一人として、戦後を平凡に生きながら、あの重い体験が、自分にとって、日本人にとって、戦後という時代にとって内包している意味を、追い求めずにはいられなかったのである。(「近くて遠い人」)
吉田を「捉えて離さなかった」という「異常な戦争体験の重さ」については対談のなかでも「陰影」という言葉を用いて語られているが、鈴木の「暗さ」や「闇」はこの意味での「陰影」の表象であったのではあるまいか。
逆にいえば、『俳句の仲間』にはほとんどこの「陰影」が見られない。むろん、そのことをもってこの句集を貶めるのはお門違いであって、本当は僕の興味もまたそうしたこととは別のところにある。僕にとってなにより興味深く思われたのは、たとえば吉田のそれとはまるで趣を異にする彼らの記憶のありようと、そこから生まれる表現のほうであった。たとえば松岡素牛は過ぎし日々を次のように振り返っている。
鎌倉の草庵に住みついてはや二十有余年になる。四季の移り変わりを知るだけの侘住いであるが老妻と二人だけだと充分である。
鎌倉の海も山も社寺仏閣総べて自分の為めにあると勝手に決めている。居を構えた当時は、まだ鄙びた寺のたゝずまいや、建仁寺塀に囲まれた屋敷から寒椿が顔をのぞかせている等。(ママ)また、海岸では地曳網が引かれ、稲村ヶ崎に沈む夕日を背景に屈託もなさそうな漁師が蟹をさげて戻る姿は全く一幅の絵を見る思いであった。
それが今では、建仁寺塀は無粋なブロック塀に、閑寂な寺領は鉄柵で区切られ、親しみ難く古都の俤は次第に失われ何んとも耐へ難い思いである。(「鎌倉の四季」)
昭和三〇年前後に鎌倉に居を構えたと思われる松岡だが、松岡が自らの過去を辿るとき、その営みは決してそれ以前には向かうことがない。それは松岡には必要のないことであり、あるいは二日会の句座において求められる興趣にもそぐわないものだったのかもしれない。
屈託もなく蟹さげて漁夫もどる
旗揚げの源氏の如く山芽吹く
鎌倉に住んで甲斐ある小六月
松岡の手になるこれらの句を支えている明るさは、鎌倉移住以後をまなざすことによって保証される明るさであったろう。あるいはまた、松岡のいう「古都の俤」をまなざすことによって保証されるものであったろう。そして二日会には、こうしたあやうい明るさを白痴的なそれへと転移させつつ詠う者さえあった。
明治大正昭和と生きし御代の春 蒲生院鳥
老眼にして酔眼や読始 同
暖かや老懶せむる人のなく 同
花に酒下品下生のわれなれば 同
先の松岡の作家的態度について批判する点があるとすれば、それは彼が「鎌倉に住んで甲斐ある」という程度にしか自らの狭窄的な視野を称賛する言葉を持とうとしなかったという、いわば踏ん切りの悪さにあると思う。だが「明治大正昭和と生きし御代の春」と詠むことのできる蒲生のふてぶてしさはどうだろうか。このふてぶてしさはまた「下品下生のわれ」といって憚らない自意識と通底するものであろう。おそらく蒲生は自分が何を見ていないのか、何を詠っていないのかを知っている。そして蒲生は、詠うことによっては自分がついにどこにも行くことができないということさえ知っていたのではあるまいか。しかしながら、その「見切り」の意識をもってこの句を批判するには当たらないし、むしろ僕には、その「見切り」を言祝ぐところにこそこの句の表現としての強さがあるように思われるのである。