【17】天高し命も長し地はたのし     寿山天舟

寿山天舟『山寺』(非売品)の一句。あとがきによれば一九八四年に亡くなった寿山天舟(岩上天舟)の七回忌に遺句歌集として編まれたものらしく、したがって、奥付はないものの一九九一年の刊行ということになろうか。

天舟は一九一二年に戸隠にある浄土真宗の阿弥陀寺に生まれ、その後正福寺で得度、法伝寺住職を経て正福寺住職となった人物である。この間天舟は各地の小学校で教鞭を執ってもいる。同書には天舟自身の俳句、短歌のほか「寿山天舟の思い出」として親類による随筆が数編収められている。

法伝寺の伯父ちゃんは我が家の人気者でもありました。その反面、人が良すぎて情に流され、教員になってからもよその人達とのお付き合いに気を使いすぎて「留守を守って下さる薫姉さんには大変な御苦労を掛けていることに気づかずにいるのでは」といつも私は心配でした。(弓削あや「天舟兄の思い出」)

教員としての天舟は、経済的な事情からズック靴を買えない子に靴を買ってやったり、お弁当を持ってこられない子に毎日昼食を買ってやったりと、子どもへの思いやりに満ちた人物であったらしい。本書にはほかにも、旅に出て宿に泊まった折に早起きして庭を掃くなど利他行の実践をする僧としての真摯な姿が書きとめられてもいる。

天舟がどのようにして俳句に携わるようになったのかは不明だが、俳誌『北の雲』に会員として参加していたようである。本書には一九七二年以降の俳句(および制作年不明の俳句)が収められている。

天高し命も長し地はたのし

天舟の句は人生を言祝ぎ、無条件に肯定するが、この句はそうした天舟のありようを端的に示しているように思われる。

寿昭よ鯉幟祝によく太れ

いちねんのにゅうがくめでた秀行君

弥栄の教え子つどう秋湯沢

年始客昇給めでた好天気

おめでとうはぎれ光るよ一年生

よばれてもいきたくないよめいど旅

孫飾る果園の花に励まさる

あまりに手ばなしの人生礼讃に、あるいは鼻白む向きもあるかもしれない。しかし僕は、たとえば次の句が本書に衒いもなく並べられているのを見るとき、このような讃歌がどこか凄みを帯びてくるのを感じるのである。

わかなさんすくすく延び(ママ)よ風薫る

あすかさんぐんぐん延びろ花祭り

四年生になるよがんばれみちかさん

ようちえんいくぞがんばれとし昭君

中二年しほがんばれよ中学生

節分や大きい声で鬼は外

鬼は外孫子あつまり大声に

鬼ハ外節分子等の大声で

内孫と出孫にぎわう夏祭

内孫と出孫つどいて夏祭

内孫と出孫つどうや夏祭

天舟は常に矢立を持ち歩き、旅中や法要の後の席などで句を即興的に詠じてはそれを短冊に次々としたためて周囲に配ったともいわれ、その作品数は数万点はくだらないという(山田法雄「天舟叔父さんのこと」)。そのような天舟にあっては、このような表現の重複はそれこそ無数にあったのではなかろうか。だがそれを批判するのは無意味だろう。僕にはむしろ、他者と対峙したときにいつも同じように言祝ぐということこそが天舟の句作の本質であったような気がしてならない。教え子の丸山みゆきは「天舟は良寛和尚と名付けられ慕う子供の心やすらぐ」と詠んだ。これはもちろん天舟が子どもたちに慕われたことを率直に詠ったものであろうが、僕はふと、「この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」と詠った良寛の恐ろしさを思うのである。良寛にはこの種の類想歌が少なくないが、僕には子どもとともにつく手まりの、その一つき一つきが良寛の子ども讃歌であり人生讃歌であったように思われ、それを絶えることなく続ける良寛のありようにはまた一抹の虚しさも感じられる。だがこのような讃歌はむしろ、そうした虚しさの極点から身を翻したときに初めて生まれてくるものではなかったか。そして、天舟の手ばなしの讃歌もまたこうした虚しさの極点から反転した場所から発せられるものであったように思われるのである。思えば『山寺』には次のような句もあった。

おそ霜になげく農夫と共に泣く

しかし、『山寺』を繙いたときに現れるのは、共に泣く天舟の姿ではなく、そのほとんどが。あまりにあけすけに他者を肯定し讃美し励ます姿である。天舟とは、他者と共に泣くことではなく共に笑うことを選んだ者の謂ではなかったか。のみならず、それがいかにステレオタイプであろうとも、笑い続けることを選んだのが天舟ではなかったか。