東京やなぎ句会編『楽し句もあり、苦し句もあり、五・七・五』(岩波書店、二〇一一)の一句。本書には通算五〇〇回を迎えた東京やなぎ句会のメンバー及び関係者による自選句、エッセイ、句会実況中継などが収められている。一九六九年に第一回を開催して以降、毎月一七日に開催されてきた東京やなぎ句会のメンバーは以下の通りである(カッコ内は俳号)。宗匠役の入船亭扇橋(光石)、永六輔(六丁目)、大西信行(獏十)、小沢昭一(変哲)、桂米朝(八十八)、加藤武(阿吽)、柳家小三治(土茶)、矢野誠一(徳三郎)。同会にはすでに『友あり駄句あり三十年』(日本経済新聞社、一九九九)、『五・七・五 句宴四十年』(岩波書店、二〇〇九)もあり、すでに故人となった三田純市、神吉拓郎、永井啓夫、江國滋もかつてメンバーであった。
本書に収録されている句をいくつか挙げてみよう。
その昔 座れば牡丹 今立てず 六丁目
呑む 打つ 買う 卒業をして認知症。 六丁目
短夜やもう石松の早支度 変哲
打ち水や平次の謎を解く時分 変哲
一九七五年七月の句会に参加した富安風生は「やや違和感」という感想を残したというが、これは句会の雰囲気に対してのみ述べられたものではないだろう。上記の句を見れば、理屈の勝った句が多く、いわゆる写生句などとは明らかに趣の異なる句が含まれていることがわかる。宗匠の扇橋は「初心者が集まった句会ですから、最初はみんな、見たまんまを詠んでました」と回想しているが、一方で「俳句の場合、「面白いね」と言われるのも嬉しいもんです。おかしい句の中には川柳に近いものもあります」としたうえで、小三治の「煮凝りの身だけよけてるアメリカ人」を引いている(「ひねらず、素直に、活写するように」)。句作の方法について「活写」「撮影」という語を用いて語り、あるいは「鮭の腹見事に裂かれ空っ風」という自句について「新鮮で光ってる鮭の腹に、乾いた空っ風が吹きつける―そんな情景を活写したつもりです」と述べている扇橋だが、少なからずこうした「違和感」について自覚的であったということであろう。上記の句にしても、たとえば六丁目(永六輔)の句は、「牡丹」を季語としてではなく「座れば牡丹」の「牡丹」として用いている点において、かなり理屈っぽい「俳句」になっており、のみならず、その脇に「セーラー服の杉村春子さんが『女の一生』で「ドッコイショ」と立ち上がったという噂がありました」という一文を添えることによってようやく面白さが成立しているように思われる(「自句自讃」)。また、変哲(小沢昭一)の句は、「眼前の景を、見たままに詠め」という「入門書」に対して「「眼前」といったって、句会の眼前には、仲間の汚い爺ィがいるばかりで、それより、よく「ものがたり」の世界に想が飛びます」と述べるような感覚で詠んだものなのである(「自選 苦し紛れの句」)。いずれにせよ、これらの句からうかがえるのは、やなぎ句会とは、まるで作句技術の向上を拒否しているようなきわめて勝手な場なのではないかということだ。永六輔が自句について「小学生新聞の俳句欄にふさわしいのだ」と書いているのは、だから至極当然のことなのかもしれない。しかしながら、このような場が四〇年以上維持されてきたのだとすれば、呆れるというよりもむしろ畏怖するばかりである。いやむしろ、こんなふうに各自の勝手を認めることのできる場であるからこそ四十年以上の長きにわたって続いているのかもしれない。そうした、いわば社交の場としてのやなぎ句会の性質がうかがわれるのは、たとえば増田明美がゲストとして招かれた際の次のようなエピソードであろう。
初の句会体験でしたが、流れる空気が独特であったことを思い出します。何気ない会話もまるで俳句のよう。皆さん多くは語らないのだけど、間を楽しんだり、誰かが発した言葉の意味を探り合ったり。何とも言えないアカデミックな空気でした。そんな雰囲気に慣れていない私は注がれた紹興酒を飲み続け、すっかり酔っぱらい、真正面に座っていらした赤いセーターの小三治さんがだんだんサンタクロースに見えてきて……。〝冬服の 赤いセーター サンタさん〟と詠んだのですが、誰もこの句を選んでくれませんでした。〝冬服や 着痩せ変わらぬ マラソン嬢〟と鷹羽狩行先生が詠んでくださり、ゲストに配慮するマナーもこの日教わりました。(「何とも言えないアカデミックな句会」)
鷹羽のこの句について、その表現としてのよしあしについて何か言うのは意味がないだろう。肝心なのは、増田が回想の中でわざわざこの句を引用しているということ、換言すれば、増田にとってこの句を語るということがやなぎ句会を語るということと不可分のものであるということだ。この句は俳句表現史上の名句というわけではあるまい。しかし、句会初心者である増田にも、この句がゲストである自分に向けて詠まれた句であるということがわかり、やなぎ句会や俳句というものがいかなるものであるのかを増田なりに理解したのである。とすれば、この句はその意味において俳句表現として貴重な一面を持っているともいえる。-いったい、俳句表現として優れているという認識は何によって支えられているものなのだろうか。
さて、表題句に話を移そう。これは柳家小三治の手になる俳句である。この句について小三治は次のように書いている。
これだけ続けてますます確信を持てるようになって来ているのは「オレはやはり俳句に向いてない」ということだ。(略)
そしてとうとう、ついに、いつの日からかは判然としないが、悟りの境地に辿り着いた。
〇上手い句を作ろうとしない。
〇自分以外の人に感心されようとしない。
〇他人にはわからなくていい。この句を読めば、他人にはわからなくても、自分だけは知っているあの時あの事を思いめぐらして、連想して、納得できる。そういうものを作ろうと宗旨替えをすることにした。三四年程前のことかしら。(「悟りの境地の宗旨変え」)
永六輔に限らず、四〇年以上句会を続けているにもかかわらず表現レベルがまるで向上しないというせりふは、もはややなぎ句会のメンバーの常套句のようである。しかし、小三治はそこから上記のような「悟りの境地」に辿り着いたという。いかにも大仰ないいかたで、真面目に受けとることには躊躇してしまいそうだが、この「悟りの境地」において詠まれたのが表題句なのである。小三治は続けて次のように述べている。
こたつというのは私の一番弟子で、今はやめてどこでどう暮らしてるのかわかりませんが、一番初めの弟子というものは可愛いいもので、いい素質もあったので何とか一人前にしてやろうという気合いがあったのでしょう。だからびしびしきびしく育てたのでしょう。一年ちょっとで我慢しきれずにどっか行っちまいました。(略)
他人様がこの句を見て何と思うか?なんて考えたら句会で発表など出来ない。ひとにはわからなくていい。自分で思い巡らすとまだまだいくらでも、汲めども尽きることはない。その頃の小三治。今の小三治。どういう心の変遷をたどって今日迄きたのか。行方不明の一番弟子のこたつから自分は何を教わったのか、教えられたのか。
ここにおいて、小三治のいう「悟りの境地」なるものが冗談ですまされる類の言葉ではないことがわかる。しかし、小三治の「悟り」はやなぎ句会に身をおく者が辿りつく境地としてはかなり異質のものではあるまいか。先の永六輔や小沢昭一の句にしても、それらは「他人」に「わかる」ように詠まれていた。ただ、各句の個性はいわばそのわからせかたの筋道をどのようにつくっていくかというところにあったように思う。だから、やなぎ句会においてはその筋道が不明瞭であるときに、その句は「わからない句」となる。たとえば加藤武は自句「合わせ鏡に映して餅つきを差配する」について次のように述べる。
席題の一つに「餅」が出た。
想像の膨らませ過ぎで自分でも訳が判らない句になった。
さすがに句友の一人が呟いた。
「何なんだい?こりゃ」(略)
つまり相撲部屋なんですよ。
親方は新婚ほやほやでしてね。親方が口説き落としたのでしょう。おかみさんは元機内乗務員でした。弟子共もつい見惚れてしまう程の別嬪なんですよ。
時節柄、稽古場で餅つきが始まったんです。おかみさんは合わせ鏡なんかして鏡台の前でお化粧に余念がない。
すると新弟子たちのたどたどしい餅のつき様が合わせ鏡に映った。
それを鏡越しに振り向きもしないでおかみさんは注意した。と、まあ、そういう句なんですよ。(「苦し紛れの句」)
一方小三治は、わからせるためのこの筋道をあえて断っているのである。筋道を断ったこの句を「当日の句会ではだれも見向きもしなかった」のは、読み手がいけなかったのか、あるいは作り手がいけなかったのか。しかし、それはもはやどうでもいいことなのかもしれない。少なくともこの句は僕やあなたのためになどつくられてはいないし、だから僕たちはこの句を前にしたとき、きっと、僕やあなたがこの句をどのように読もうともその読みを拒絶されてしまうという寂しさと対峙することになる。けれど、僕たちの読みが決して届くことのない場所を想像することは本当に寂しいことだろうか。小三治のいう「汲めども尽きることはない」思いは僕たちの寂しさと引き換えに成立するものであろう。いわば、僕たちの寂しさの強度は、そのまま小三治の思いの強度でもあるのだ。