【20】散る桜静寂を破る鐘の音     澤口翠

 雑賀修編『花水木』(和歌山市老人大学俳句教室花水木、平成一三・三)の一句。本書は和歌山市が行っている老人大学の俳句講座の四年間の成果をまとめたものである。生徒の一人、中富久夫は次のように書いている。

私たちの生活の、身近な事柄と結びついている俳句に、私は若い時から大変興味を持っていましたが、『翅わつててんとう虫の飛びいずる』高野素十の句を読み、てんとう虫の飛び出る時の状態から躍動感、そして未知の世界への誘いと想いを転換させる事の出来る素晴らしさに感動し、俳句の勉強を決意して、老人大学初級俳句教室第六期生として雑賀芒風先生の教えを受ける事になりました。

 集中、孫の句が頻出するのは老人大学の句集ならではのことだろう。

子も孫も元気に揃ふ今朝の春                      宇治田恵風

柚薫る湯気の中より孫の声                       梶川光希

ランドセル離さぬ孫に春日さす                     林希美

園庭に孫も混りて花埃                         大塚艸人

更衣孫の姿の眩しくて                         加藤香風

土用波孫の頭の見えかくれ                       加藤城苑

背丈伸び孫輝きて入学す                        澤口翠

喜寿祝ふ孫子の集ひ枝垂梅                       堤本須磨女

 以前この連載で寿山天舟の『山寺』を紹介したが、天舟のなりふりかまわぬ言祝ぎにくらべるとやや落ち着いているのは、先生の雑賀芒風の影響であろうか。

かはせみの巣穴にもどる早さかな                    雑賀芒風

ふた声を闇にのこして青葉木菟                     同

小魚を追ひつめてゐし冬の鷺                      同

 露骨な感情の表出があまり目立たないのは、抑制のきいた雑賀の句のありようと無関係ではないだろう。とはいえ、孫を詠む彼らの句が孫を元気でかわいらしい存在として描き出すことに終始するという類想的傾向は否めない。しかし僕は、そうした類想があまりにも容易く行われているという事態に、嫌悪感というよりもむしろ不思議な感覚を覚える。というのも、彼らは孫をこのようにありきたりに詠む自分を恥じてはいないのであって、とすれば、それを表現者としての怠惰としていくら批判したところで、彼らにしてみればそのような批判はお門違いなものにすぎないのではあるまいか。この奇妙なずれについて考えるために、たとえば次の句を見てみたい。

散る桜静寂を破る鐘の音                         澤口翠

 「桜」が散るなか「静寂を破る鐘の音」がもたらされるという、そのあまりにわかりやすい構図を前にしたとき、この句からはその美しさよりも不出来ばかりが目につくように思われる。あえてわかりやすい美のありようを提示することで大見得をきるというような逆説的な方法を用いているのだとも思えない。この句について、たんに未熟な句として切り捨てることは容易であろう。たしかに、この句は陳腐な構図の作成に躍起になってはいるものの、言いおおせた以上の何ものも表してはいない。しかし、僕にはむしろこの句が表現として未熟であればあるほど、なぜ未熟さがこのような表現を引き寄せたのかということこそが問題であるように思われるのである。さらにいえば、そのわかりやすさに依拠した表現によって充足することはなぜいけないのか。おそらく澤口はこの句を詠んだとき、少なくともその瞬間において、この句の読み手としての澤口はこの句に何がしかを読みとったのであり、それが少なからず満足のいくものであればこそ、僕たちの目の前に提示したはずなのである。読み手としての澤口の得た満足は、はたして澤口の読み手としての力不足による幻であったのであろうか。しかし僕には、読みのもたらす満足感とは、そもそもそのような頼りないものであって、その幻を、それでも信頼していく行為こそが切実な読む行為であるような気がしてならないのである。

吊り橋に懸かる通草のゆれ止まず                    雑賀芒風

吊橋のゆれて通草の花白し                       同

つり橋のゆれ止まずして藪椿                      宇治田恵風

 たとえば本書に収められたこれらの句を読むとき、僕は吊り橋とその動揺とをこのように描出する雑賀や宇治田にたいして、素十ほどの畏怖を覚えない代わりに、その表現者としての怠惰を認めるけれども、一方で、そのような怠惰を不用意に非難の対象とすることにも違和感を覚える。そのような非難は、たしかにこの句の詠み手としての雑賀や宇治田をまなざしてはいるが、読み手としての彼らの充足を尊重してはいないからである。僕たちは誰よりも僕たち自身のために俳句を詠んでいるのではなかったか。そしてまた、僕たちは誰よりも僕たち自身のために俳句を読んでいるのではなかったか。このように考えるとき、僕には類型や類想について、また違った思いが浮かんでくるのである。いったい、類型や類想をもってその句の詠み手を貶めることはありえても、彼らの読み手としての側面を貶めることはできないのではあるまいか。なぜなら、俳句作品とは、それが僕たちの前に現れるとき、それを詠んだ彼ら自身の読む行為の痕跡がいつも刻みつけられているものだからだ。そしてもちろん、その読む行為とは、ついに僕たちの手の届かない場所で行われるものなのである。だから、僕たちがたとえばある句についてその表現としての不出来を感じるのなら、それはこの句の最初の読み手であった彼や彼女のいた場所を僕たちは遠望するしかないという絶望感の強まりを伴うものであるはずなのである。