宮澤康造『写真譜・句碑百選』(桜楓社、一九八六)の一句。本書では宮澤が近世以降の作品が刻まれた句碑を訪ね、句の作者の略歴とともに句碑を紹介している。句碑の選択について宮澤は次のようにいう。
◇私の手元の資料で、芭蕉の句碑は現在全国に千八百基を優に超えており、近代俳人の中でも句碑二十基以上を持つ方が三十名余に及びます。結局ふるさとに焦点をあてることでどの句碑を選ぶかの基準としました。しかし東京出身の俳人は多く、その方々全員を東京にある句碑で紹介するのもかたよりが生じ、やむなく関係深い地方に配分することにしました。
本書刊行からすでに三〇年近くが経った現在においてはこの数字にも多少の変動があるはずである。とはいえ、たとえばその句碑が九州を中心に四九基建立されているという河野静雲などは、近代俳人のなかでも句碑の数の多い方になるのだろう。静雲は一八八七年に福岡市一行寺住職の三男として生まれ、五歳の折、同市称名寺河野智眼の養子となった。一九一四年に『ホトトギス』を購読したことがきっかけで虚子門に入り後に『木犀』を主宰した。戦時下においては福岡県下のホトトギス系俳誌の統合に尽力し、新たに『冬野』を創刊主宰している。戦後は全国の俳人からの寄附によって福岡県太宰府町に花鳥山仏心寺を建立し住職となった。さらに仏心寺内に虚子堂を新築、花鳥諷詠俳句道場とした。静雲の句碑の多さは、ホトトギス派の俳人としてのこうした活躍によるものであろう。
いったいに、句碑の多寡は必ずしもその俳人の表現史的な軽重に比例するものではなさそうである。かといって、俳壇内での地位に比例するというほど単純なものでもなさそうだ。たとえば三〇基近くの句碑を持つという大谷句仏は、句碑の多くが本願寺別院やゆかりの寺に建てられているが、これはその作品の力のみならず、句仏が東本願寺管長であったことが大きい。また、「全国に五十数基の句碑」が建立されているという種田山頭火について宮澤は次のように指摘している。
現在防府市は、市をあげて山頭火の業績を讃え、駅前に山頭火の行脚僧姿の銅像を建て大座に句を刻み、(昭60)(ママ)文業の紹介につとめている。市内本橋町護国寺には、墓碑と三基の句碑があり、その他計九基の句碑がある。
『現代用語の基礎知識』に「山頭火ブーム」の語が見られるのは一九七三年のことである。一九五四年、死後一四年を経て、故郷である防府市に句碑が建てられた山頭火であったが、その後のブームによって山頭火は重要な観光資源となったのである。句碑がこうしたかたちで脚光を浴びることもあるのだ。
ところで、良い句碑とはどのようなものであろうか。詩碑、句碑の探訪を長年続けてきた宮澤は次のように述べる。
◇よい句碑とは、すぐれた句がいい石にいい文字で刻まれ、よい環境に建てられたものをいいます。さらに長い歳月に耐えて文字が明瞭に読みとれることも条件にあげたいと思います。近年文学の森や文学のこみちが各地にでき、文学碑を通じて文学に親しむ心を掘り起こそうという動きがあって、うれしく思います。句碑だけを主に集めた森や公園が十指近くあるのも心惹かれます。一方観光地などで単なる客寄せのために意味のない文学碑が建てられているのも、考えなければならない問題と思います。
思えば、個々の句碑の建立のみならず、句碑建立という事業一般にまで自らの問題意識を広げることのできる者は俳人のうちにどれだけいるだろうか。そういえば僕たちは、たしかに数多くの句碑に囲まれて生きている。僕たちは俳句を紙の上でのみ読んでいるのではない。それはときに石に刻まれたかたちでも僕たちの前に現れるのである。そして句碑においては一行書きという紙の上の常識は通用しない。そこでは、句碑ならではの美意識に基づく表記が優先されるのである。その美意識の及ぶ範囲は表記のみにとどまらない。その句をどのような文字で、どのような石に刻むのかということも重要な問題である。それは、その句碑がどのような経緯で建てられたのかということとも密接に関係している。たとえば角川源義の「神の井やあかねにけぶる冬木の芽」の句碑について、宮澤は「碑面の粗い自然石に句が刻まれ、白がさされて」いること、角川照子によって揮毫されたものであることを指摘したうえで、この句碑を「無造作な碑石に生前の俳人の風貌など偲ばれてうれしい」と述べている。この句碑は角川源義没後の一九八一年に『河』主宰者であった源義を偲び各支部の賛助によって建てられたものであるが、照子の揮毫によってかつての主宰を偲ぶという行為のうちには、『河』の後継者としての照子の並々ならぬ思いと、後継者が照子であることを改めて認知する周囲の思いとが交錯していたように思う。
ところで、宮崎は先の文章のなかで、よい句碑の条件としてその石の建てられている環境も挙げていた。この環境の重要性をよく物語っているのは佐賀県の名護屋城址に建てられた青木月斗の「太閤が睨みし海の霞哉」の句碑についての記述であろう。
名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、全国の諸大名に命じ天正十九年(一五九一)十月からわずか五か月で完成したもので、当時は総勢三十万七千人の将兵が周囲の山野に布陣したといわれる。月斗の句碑は秀吉の往時を偲んでの作である。(略)
句碑は廃墟と化した本丸跡に立ち、背後に波戸岬・馬渡島・加唐島などの眺望があり、傍らには往時の定石が積み重ねられている。句を口ずさみつゝこゝに立つとき、誰しもおのずから回顧の情を禁じ得ないであろう。
ここにおいて、僕たちが名護屋城から海の霞を睨んだ秀吉に思いを馳せることができるのは、ひとり句の力だけによるものではないことがわかる。それが「月斗の雄輝な文字」で刻まれているということ、そして何より、いまや廃墟となった名護屋城址に、背後の眺望を感じつつ句碑として屹立しているということが、僕たちに「海の霞」や秀吉のまなざしのありようをよりくきやかなそれとして見せてくれるのである。
もう一つ、志田素琴の「ひよこ共浴びよ木陰の砂涼し」の句碑を挙げてみよう。
句も字もそして碑石もよく、心惹かれる句碑である。すぐ隣には近年杏子・中島正文の句碑が建設された。県立図書館の一帯は呉羽山公園となっており、数々の遺跡や資料館があり、また句碑・歌碑なども多く文学逍遥の地としても好適である。(略)
素琴の句碑はもう一基長年勤務した成蹊大学の図書館わき、楓の林の中にある。(略)素琴は長い間大学の図書課長の職にもあった。
志田の句碑がその故郷である富山県の県立図書館の庭に建てられたのは、その死の八年後、一九五四年のことである。中島正文(中島杏子)は前田普羅に師事、普羅の『辛夷』を継承し、富山県内屈指の俳句雑誌にまで育てあげた人物。一九三二年に私立中島図書館杏子文庫を創設、その二年後に砺波図書館協会の初代会長に就任した人物でもある。一九四〇年の津沢町立図書館創立の際には自らの図書館を閉じ蔵書を寄贈しているが、戦後は津沢図書館長、富山県図書館協会長として尽力し、死後はその蔵書が遺族によって富山県立図書館へ寄贈され、「中島文庫」として一般に公開されている。同図書館にはまた志田の俳諧関係蔵書約四八〇〇冊も「志田文庫」として所蔵されているという。こうした事情とともに、中島の句碑と並ぶようにして建っている「ひよこ共浴びよ木陰の砂涼し」の句碑を前にするとき、「ひよこ」へのあたたかなまなざしが、いつのまにか、その図書館の庭に立つ者にまで届くものへと転位していることに気がつかないだろうか。むろんそのまなざしは句碑が建つことによって生まれたものなのである。句碑が新たな読みを生むことがあるのだ。