池田永一治『新理念 俳画の技法』(芸術学院出版部、一九四一)の一句。本書は『日本画の技法』『油絵の技法』『水彩画の技法』などと同様に「絵画技法叢書」のひとつとして刊行されたもので、したがって俳句の本というよりもその名の通り絵画の技法書というべきものである。そもそも著者の池田永一治(池田永治、一八八九~一九五〇)は主として大正期から昭和期にかけて漫画家・挿絵画家として活躍した人物である。池田自身は本書において、日露戦争後「日本画壇の新進と洋画界の新人が提携して、設立した旡聲會を皮切りに、洋画家の新日本画が世の視聴を刺激した」といい、自分もまたそうした「新日本画」の研究にいそしんだこと、さらに新日本画の「珊瑚會」が結成されると平福百穂、小川芋銭、森田恒友、川端龍子ら諸先輩にまじって「同人の末席を汚して紙絹に親しむ事久しかつた」とその経歴を記している。
俳句はしばしば短冊や色紙等に毛筆で記されることもあり、したがって俳句の書法についてのハウツー本も存在する)。のみならず、そうした色紙や短冊には絵も添えられることがある。もっとも、たんにそのような絵を「俳画」とするのは違うようである。「俳画」なるものについての書籍は少なくないが、そのいずれを読んでも定義がはっきりしない。
そもそも「俳画」という呼称はいつ頃生まれたのだろうか。太田三郎は野々口立圃の自画讃の作をなしたのをもって俳画の濫觴としているが、一方で、そうした絵を「俳画」という呼称で扱うようになったのは渡辺崋山の「俳画譜」や鈴木三安が「曾問先生俳画濫觴」と書いたりした天保の頃からであろうとしている(「俳画概説」『続俳句講座』第六巻、改造社、一九三四)。なお崋山の「俳画譜」には「瀧本坊光悦などはじまりなるべし」とあって、瀧本坊(松花堂昭乗)や本阿弥光悦をその魁としているようである。
また「俳画譜」で崋山は俳画の特徴について「俳諧絵は唯趣を第一義といたし候」とし、「かれこれ思い合描くべし。すべておもしろくかく気あしく、なるたけあしく描くべし」と述べていて、稚拙さこそ俳画の「趣」であると指摘している。稚拙さが「趣」へと転じたものが俳画であるのなら、俳句と俳画とは何の関係もなさそうにも思えるけれども、その関係はそう単純なものでもなさそうだ。たとえば前掲『新理念 俳画の技法』のなかで池田は俳画を「依然混沌として何ら定義らしいものさへ持たない」ものとしつつ、一方で次のように述べている。
俳画は俳趣味の絵だ。
俳趣味とは俳句の持ち味、わびしをりを尚ぶの意で、わびしをりとは、和歌の謂ふものゝあはれをもひつくるめた、もつと手近にあるところの真善美を見出して、それを賞へ喜び、味はう事に他ならない。
また「俳画の定義―此れは確定してをらぬ」とする小川千甕は、「俳趣が盛られ」「俳句の簡素な形式に准らふ素朴な表現であらねばならぬ」としている(「風景画」前掲『続俳句講座』第六巻)。なかには「作者の感興が迸つて、それが文字となつたものが俳句であり、点と線との形式で表現されたものが俳人画」である、そして「俳画」は俳人が余技として描く「俳人画」のことだとする説まである(本方昌「俳画研究」『俳句講座』改造社、一九三二)。「俳趣味」といい「俳趣」というが、その意味するところは曖昧でいまひとつはっきりしない。ただ、彼らに共通しているのは、「俳画」は「俳句」の賛を必要とするものではないと考えているらしいということである。実際、俳画の入門書のなかには次のようにはっきりと述べているものもある。
一目にして 俳画と判るものを描けばよい
俳句の賛がなければ 俳画でないものは真の俳画ではない
例えば
画がなってその画にどうしても句賛の出来ないとき
作者は そのままで、敢えて賛を加えない
それに無理から句を入れる事は 画に対する作者の見識をうたがう(赤松柳史『俳画入門』創元社、一九六四)
赤松柳史は一九四八年に俳句俳画誌『砂丘』を創刊・主宰した人物で、戦後の俳画界の牽引してきたひとりである。赤松は俳画を「巧さよりも むしろ稚拙に尊さを見出す画」であるとしているが、そのような絵を描き出すことが俳画制作の第一義と考えていたようである。しかし厄介なことには、逆に「俳画の俳画たるゆえ(ママ)は、そこに俳句が書かれているということである」とする入門書(安藤翠浦『現代俳画のこころ』日貿出版社、一九八三)もあり、俳画における賛の有無についても甚だ曖昧である。ちなみに、約三〇年前に刊行された『現代俳画のこころ』には、当時の俳画についての安藤の現状認識が次のように記されていて興味深い。
従来、巷間に流布している俳画は、ややもすれば技巧に偏り、美麗に奔る傾向があり、画の心を閑却し、日本画の略画めいたものをもって俳画と称しているやに思量されます。同好者を募るあまり、指導するにあたり、遊び、楽しみの類のごとく、誰人にも手易く描けるものと宣伝し、おもねる風さえ感ぜられます。かかる風潮に乗って、家庭婦人層にまで誘い勧めることは、あながち悪いとは申しませんが、往々にして安易に奔り、芸術性を忘却し、模写、模倣の横行に立ち至るわけで、この点、今日の俳画の興隆を一概に喜び得ないのが、私の常に危惧するところであります。
ここに書かれている「今日の」「興隆」とそれへの危惧は、当時の俳句においても多くの評者が指摘していたところであるが、こうした俳画・俳句が大衆化を「危惧」する言説が同時期に見られることは決して偶然ではあるまい。こうした大衆化とそれへの「危惧」の表明は、おそらく他ジャンルにおいても生じていたはずで、とすれば、この種の「危惧」についてはもう少し広い視野に立って考える必要があると思う。
さて、改めて表題句に話を戻そう。この句は鎧姿の女性が馬にまたがった「巴御前」なる絵に書かれたものである。この作品について池田は次のように述べている。
余生を楽しむ隠居後家ならさつぱりしたもの。日課の謡曲は腹ごなし。気の向くままの庭そうじ(ママ)も、暑い夏なら肩膚脱ぎの気安さ。自分の屋敷で、自分の庭なら遠慮のない筈だ。
たくましの後家やはだかの庭さうじ
という句を思ひついて、それにこの絵を添へたのだから主客転倒したかたちだ。
「句を思ひついて、それにこの絵を添へたのだから主客転倒」という言いかたには、あくまでも絵が主であるという池田の認識がうかがわれる(実際、『俳画の技法』には俳句のない絵がいくつも「俳画」として収録されている)。それにしても、この「俳画」は先ほどの「もつと手近にあるところの真善美を見出して、それを賞へ喜び、味はう事」をどのように体現しているだろうか。池田は「巴御前」についてさらに次のようにも述べている。
果たしてこんな服装かどうかは栓(ママ)索してる暇がないし、馬も亦黒馬か赤馬かは識らないが、ここではこの方が配色の上からは似つかはしいので選んだまでだから、悪く云へば絵そらごと。
ようするに、ここに描かれた女性の絵は「巴御前」らしき記号として機能していれば十分なのであって、そうした「巴御前」のイメージを「たくましの後家」と重ねることをもって「手近にあるところの真善美」を示したのがこの作品であったということであろう。
翻って考えれば、このような「俳画」は池田が生業とした漫画の表現に―それもいわゆる一コマ漫画に―こそ近いものであるようにも思われる。池田の俳画と漫画の近さを考えるうえでより示唆的であるのは、「蛙」という作品であろう。短冊の上部に水草を、真ん中に蛙を描き、右下に「クリークや支那兵飛込む水の音」という句を賛したこの作品は、自らのいう「俳画」の精神よりも、むしろ一九四一年末に出された本書の序文に次のように書いて憚らない資質と地続きのものであるように思われる。
東洋平和のためなら、たのまれずとも撃つて出やうが日本魂。多岐亡羊、畠ちがひの横槍も何んのへちま、牛久の沼の河童の屁。
堅忍持久、枯れ木に花の咲爺媛。一億一心職域奉公の頑張り、贅沢は敵なり、風雅も明日の備ある御かげと思へば心から、兵隊さんよ有難う。
玉の盃底抜けて文弱に流れ、風流に溺れては獅子身中の害虫、いつの世でも度し難い。