【29】軒の灯を守りぬきたる夏土用     山本恵造

樋口修吉『老舗の履歴書Ⅰ』(中央公論新社、一九九九)の一句。本書は東京の老舗をその来歴とともに紹介したものである。山本恵造は日本橋室町の山本海苔店の取締役会長を務めた人物。本書では、山本海苔店以外にも俳句や俳諧とかかわりのある老舗がいくつか紹介されている。たとえば旧木挽町八丁目の鰻屋竹葉亭は、一説には初代別府金七の俳号が竹葉であったことがその屋号の由来であったともいわれ、また三代目の哲二郎の長女竹子の夫で銀座支店の責任者だった高橋鐵男は「近代俳句」に所属し「雨ニモマケズの詩 書いてある鰻屋です」などの句を残している。あるいは旧米澤町三丁目の合鴨料理店鳥安の二代目渡辺大助は一菜庵という俳号をもち雑俳を趣味にしていたという。ほかにも、銀座五丁目のテーラー壱番館洋服店の創業者渡邊実は銀座で商売をしている八人で「銀燈会」を結成し若いころから俳句を嗜んだ。ちなみにこの「銀燈会」では銀座のタウン誌『銀座百点』の投句欄「銀座俳句」の選者であった永井龍男と五所平之助が指導にあたっていた。
さて表題句だが、樋口によればこれは「竹葉亭の先代女将をうたったもの」であるという。この「先代女将」とは竹葉亭四代目当主別府信雄の妻道子のことである。竹葉亭は嘉永年間(一八四八~五三)に別府金七が京橋に近い蜊河岸に創業した「お刀預り所」に始まるが、佩刀禁止令のだされる明治七年以前に鰻屋に転向していたようだ。樋口は明治五年に出た「高名三幅対」という刷り物にすでに「蒲焼・京橋・竹葉亭」の名が見えることなどから、当時から鰻屋として繁盛していたとしている。この蜊河岸の店舗は二代目金七のとき関東大震災で焼失してしまい、その後木挽町に移転している。
道子はこの竹葉亭の三代目当主哲二郎の一人娘である。哲二郎と妻レイの間には男子が生まれなかったため哲二郎が弟得三の小学校時代の同級生である信雄に白羽の矢を立てたのだった。道子は府立第二高女を卒業したばかりの一七歳のときに、一三歳年上で東大文学部を卒業後東洋大学でドイツ語を教えていた信雄と結婚している。昭和七年に二人が挙式した場所は大正末に美食倶楽部が開いた星が岡茶寮であった。別府家の婿養子としての信雄が四代目当主となったのは昭和二二年。このころの竹葉亭について、樋口は『断腸亭日乗』の昭和一六年四月一三日の記事「尾張町竹葉亭は米不足にて鰻に饂飩を添へて出す由」を引いているが、昭和一九年に営業を休止した竹葉亭は戦後も物不足の影響や飲食店の営業に対するさまざまな制限を受けて、昭和二四年にようやく営業を再開している。信雄と道子は戦中戦後を経て高度経済成長期の竹葉亭を切り盛りしていたが、道子について樋口は「道子は、老舗の看板女将としての心構えをかたときも忘れなくて、いつも地味な着物姿で、装飾品はおろか腕時計も身につけず、すべてを控え目にした」と述べたうえで、「道子の〝女将ぶり〟を紹介するのに、絶好の文章」として、古波蔵保好の「食通たちのこの一店」(『小説新潮』昭和五六年夏号)を引いている。

近ごろ、心意気の高いおかみさんに出会うことはめったのないが、私の出歩く半径の内にいる人として、竹葉亭本店のおかみさんは、唯一の見事なおかみさんだ、といいたい。初めてこの店へ行ったとき、さりげなく出された番茶の湯のみが、魯山人の、しかもたいへん出来のいいものであることに気づいて、まずおかみさんの心を感じたものだ。

戦災を免れた竹葉亭には古い器が残っているため、本店ではほとんど新しい器を購入することがないという。山本恵三の句は老舗の一人娘として生まれ、早くから女将として生きることを決定づけられた道子のこうした「女将ぶり」を詠んだものであろう。
ところで、竹葉亭の土用の営業について樋口は「今年も土用の丑の日に、本店ではふだんの五割増し、千匹近い二百キロの鰻を仕入れる」と述べる一方で、明治二九年七月二三日付の『都新聞』の記事に「土用の丑の日なるため例年の通り、東京竹葉亭、日本橋の和田平など休業す」を引いている。この「休業」に関して、樋口はさらに明治四〇年七月二九日付の『都新聞』の記事を引いている。

土用の丑の日に有名なる鰻屋は休業する習いなるが、その理由は混雑のため、吟味したる蒲焼を供せぬ憂いあり。店の暖簾に傷がついてはと、いつか休業するようになったというが、実は平常客先に商品切手を売っているため、当日になって注文が激増しては、仕入れ値の最高なるときに、鰻を無料で配布するような結果となるを防ぐ、横着な奸手段であるともいわれ、霊岸島の大国屋、神田明神下神田川、竹葉亭本店は古くから休業しているが、今年から四谷見附魚金、江戸川石切場橋本も休業するという。

樋口はまた竹葉亭が土用の丑の日にも営業をするようになった時期について「たぶん戦後のことであろうと思われる」と述べているが、とすれば、まさに道子が女将として活躍していた時期に変更が行われたことになる。大正一〇年生まれの恵造がこうした営業方針の変更を知っていたかは定かではないが、『都新聞』の記事に従うなら、「軒の灯を守りぬきたる夏土用」という句は、今も昔も変わらぬ姿で夏の土用を迎えた老舗とその老舗を切り盛りする道子の姿を詠んだものではなく、むしろ、昔とは違うけれども老舗を守りぬいている道子の姿が見えてくる。いわば、土用の丑の日の竹葉亭の店先に、かつては掛けられることのなかった暖簾と、いままさにそこに掛けられている暖簾とを同時に認めつつ、その二重写しにされた暖簾をくぐった先にある「軒の灯を守りぬ」く道子の姿を詠ったのがこの句であったように思われるのである。そして、実はそうした姿こそが、老舗の女将としての道子のありようとしてふさわしいようにも思われる。
そもそも竹葉亭は、必ずしも、いわゆる昔ながらの商いに固執しているわけではない。たとえば二代目金七は明治八年に都座が新富町に新富座として移転すると、新富座へ弁当を納めるようになったが、その後明治二二年に開場した歌舞伎座や明治四四年に開場した帝劇にも販路を拡大している。さらに尾張町新地や丸ビルに支店を開いたが、この丸ビルの支店は片隅にスタンドバーを設けた斬新なものだったという。高度経済成長期にはこの丸ビル支店が稼ぎ頭であった。道子の父哲二郎の代になると支店はさらに増え、昭和初期にその数は東京に一四軒、大阪に一〇軒となった。料理においても哲二郎は和食の料理人を雇い入れることで、蒲焼ができるまで香の物か白焼でしのぎ他の料理は料亭から取り寄せるといった従来のありかたにとどまるのではなく、懐石料理の焼き物に鰻の蒲焼や白焼を取り入れるなどの改革を行っている。その他にも、樋口によればいまでは「ほぼ天然に近い、納得のゆく育て方」をした養殖の鰻を使用しているし、また本来は備長炭で焼いていたところを、ビル内の店舗は消防法のために使用できず、本店のみ備長炭で焼いているという。
こうした転換についての評価はさまざまであろうが、少なくとも竹葉亭にとって「軒の灯を守りぬ」くとは、このように世代や時代の推移を前提とした営みなのであって、そして、このことは竹葉亭と同じく嘉永年間に創業された山本海苔店においても同様であったろう。嘉永二年(一八四九)に初代山本徳次郎が日本橋室町一丁目に創業した山本海苔店は二代目徳次郎の代に発展を遂げる。二代目は海苔を「食」(家庭用)、「棚」(業務用)など用途別に分類し顧客のニーズに即した海苔を廉価で販売する新商法を考案し評判になったが、のみならず明治二年に明治天皇の京都への行幸の際、御所への土産物として味附海苔を創製して上納し、この味附海苔が大ヒット商品となっている次いで明治三三年の二代目他界後すぐに三代目を襲名した三代目徳次郎も、当時の日本社会の膨張に呼応するように朝鮮半島、ハワイ、米国本土へと販路を拡大するほか、海苔の人工乾燥場を初めて設け、現在では当たり前となった人工乾燥を始めている。恵造が五代目徳次郎のもとで山本海苔店の社長となったのは、昭和二二年、二六歳のときであったが、当時の山本海苔店の経営は苦しいものだったようだ。昭和一五年に乾海苔の公定価格が制定され、同一七年には海苔の配給統制が始まったために、取扱量の制約を受け、昭和二二年まで開店休業状態にあったのである。五代目の補佐役として活躍した泰介は「革新の連続こそ伝統の保持である」と語ったというが、その後の復興を可能にしたのはこうした革新の精神であったろう。とりわけ、戦後の困難な時期に二六歳という若さで社長に就任した恵造にとって、戦中戦後にかけての道子の老舗女将としての苦労は決して他人事ではなかったのではあるまいか。そういえば、大正四年生まれの道子は恵造とほぼ同世代に当たる。「軒の灯を守りぬきたる夏土用」は、その実、恵造自身の姿を投影したものであるのかもしれない。