黒澤京子・黒澤絵美『母が鼻歌まじりに』(高遠書房、二〇〇五)の一句。本書は黒澤京子による俳句と、その娘である絵美のエッセイを収めたものである。巻末の「御挨拶」で絵美は父が他界してからの一二年間の軌跡をまとめたものであると記しているが、巻頭を占めるのは京子が夫の死後に絵美と行なった四国巡礼の句とエッセイだ。
こんなにもあっけなく目の前からさらわれるように逝ってしまうなんて。共に泣き笑い、苦しみ楽しんだ夫との四十数年の暮らしは、そのまま私の人生であったのに。これから老いへの日々も共に歩き、人生の仕上げをする相棒だったはずなのに。突然打たれた終止符に私は言葉も出なかった。(略)
「南無大師遍照金剛、何とぞ夫をお守りください。安心して仏になれますよう、お導きください。私は一生懸命歩きます。それで夫が成仏出来ますなら、どこまでも歩きます」
祈りの言葉が自然に湧いて出る。
遥かな山裾を、白装束で杖を持った夫が大股に飛ぶように行く。待っててよ!と私が追いすがろうとすると、夫はどんどん先に行ってしまう。その仏姿の夫の影を追い、一心不乱に歩く。行く手には四国の山河が果てしなく広がっていた。
発心の経緯を記した京子のこの一文からうかがえるのは、絵美の記したように「夫大事で生きてきたのに、夫亡きこれからの私の人生などは余禄のようなものです」と言って憚らない人間の姿であり、あるいはひたすらに夫の成仏を祈る妻の姿である。だがその一方で、その句に目を向けるとこの巡礼の旅も違ったものに見えてくる。四国巡礼を詠んだ「遍路径」の句を引いてみる。
山鳩のほうほう歩き遍路かな
沙羅双樹しろがねの芽のふくらめる
巡礼の鶯の音に歩のゆるび
お四国さんと呼ばれし母子青田風
札所三十三番蠟梅の香に安らぐも
行き昏れて野の梟に啼かれけり
たとえば「沙羅双樹」の「しろがねの芽」のふくらみへのまなざしは、悲壮な決意のみで巡礼を続ける者のそれではあるまい。むろん、ここには夫を悼む思いや成仏への祈りが込められてもいるのだろう。けれども、この句を「遍路径」の他の句とともに読むとき、それはやや違った趣で立ち現われてくるようだ。京子は遍路のさなか、「鶯」や「山鳩」や「梟」の声に耳を澄ます。また、その歩みのなかに「青田風」を感じ、「蠟梅の香」に安らぐ。ここにあるのは、道々にふいに現れる他者を自らの巡礼の旅の道連れとして受容するやわらかな態度である。
鼻歌まじりに植物の手入れをするのと同様に、人並み外れて小柄な母は家族にどんな災難がふりかかろうとも、へっちゃらよ!と笑い飛ばして困難に立ち向かう。その姿勢は今も変わらない。視力障害の娘を抱えた非力な未亡人という悲壮感などさらさらなく、一見呑気に、しかし本人は大真面目に生きている。
絵美は母についてこのように述べているが、京子のこうした姿勢があるいは先の句をもたらしたものかもしれない。ただ、「行き昏れて」の句に見られるように、こうした諸々との出会いには、むろん夫の死やその後の自らの生への思いを前提としているのであって、これらをたんに柔軟で前向きな句であるととらえることはできないだろう。これは僕の深読みにすぎないのだけれども、僕には、たとえば「山鳩の」句の「ほうほう」が、あるいは「這ふ這ふ」であったのかもしれないと思われてならない。
頭上からは蝉しぐれが降り注いでいた。いや、もしかしたらそれは例の知人が言っていた、キーンという耳鳴りだったのかもしれない。この長い階段を上り切ったら、この札所さえ打ち終わったら今日の行は終わるのだと自分に言い聞かせながら、手すりにしがみつくように這い上がって行く。頂上近くまで上り詰めた時、私の前を行く母は肩で大きく息をつき、かろうじて身を支えていた。その全身から破裂しそうな心臓の音が聞こえてきそうだった。この人は後ろ向きにひっくり返るのではないかと思い、そのときには受け止めてやろうと身構えた。だが、母はどうにか頂上まで辿り着き、よろめきながら御手洗いに向かった。
記録的な猛暑となった一九九四年夏の、峠越えを伴う六七番札所までの道程を、絵美はこのように記している。たとえ「這ふ這ふ」の巡礼であろうとも、それを「ほうほう」という山鳩の声へと転じることができるのが京子なのではなかったか。そういえば京子には「瞬くは亡夫の声か星月夜」の句もあった。夜空の瞬きに夫の声を重ねる京子のありようは、僕には決して悲劇的なそれとは思われない。「星月夜」の瞬きに「亡夫の声」を思わずも見出してしまったということを、そのまま「亡夫の声」を見出せた喜びへと転ずることのできるのが京子なのではなかったか。あるいは「去年今年胸に馴染める頭陀袋」の句もある。京子は、夫の死後に身につけるようになったはずの「頭陀袋」がいつしか自分にとって懐かしいものへと転じていったこと、そしてそのような自分のありようを受け入れることのできる自分をじゅうぶんに知っている。
ところで、京子の俳句について考えるとき、一方で僕には堀辰雄が「更級日記」について語ったときの次の言葉が思われるのである。
夢みがちな彼女にとつて、自分の前に漸く展かれだした人生はいかに味氣ないものに見えたことであらう。が、その人生が一樣に灰色に見えて來れば來るほど、彼女はいよいよ物語に沒頭し、そしてだんだん自分の身邊の小さな變化をもいくぶん物語めかしてでなければ見ないやうになる。(堀辰雄「姨捨記」)
京子が「夢みがち」な女性であるとは思わないし、「物語に没頭」していたとも思わないけれど、堀辰雄のこの言葉は、どこか京子と俳句形式との関係を言い当てているようにも思う。僕は前に、京子が遍路の途上で「鶯」や「山鳩」や「梟」の声に耳を澄まし、その歩みのなかに「青田風」を感じたり「蠟梅の香」に安らいだりしたのだと書いた。けれどそれは本当だろうか。京子がこうした声に耳を澄ますことができたのも、青田風や蠟梅の香を感じることができたのも、本当は、俳句形式によってそのように書いたからではなかったか。いわば、京子に「鶯」や「山鳩」や「梟」の声が聞こえたのは、耳を澄ましたからではなく、そのように詠んだからではなかったか。堀辰雄の言葉を借りるならば、京子の句は、夫の死と四国巡礼という自らの身辺に起こった変化を「いくぶん俳句めかして」まなざしたものであるように思われる。
翻って「沙羅双樹しろがねの芽のふくらめる」について考えてみると、釈迦入滅の時にその床の四隅にあってたちまちに枯れて白い花をつけたといわれる「沙羅双樹」を詠みながら、京子はあえて「しろがねの芽」のふくらみに目を向けている。これは、実際に芽がふくらんでいたためでもあろうが、しかしながら、あえて「しろがねの芽のふくらめる」と詠んだというその操作のなかに京子の投機としての俳句を見ることができるのではないか。換言すれば、京子は沙羅双樹を俳句にしないこともできたはずなのに、あえて沙羅双樹の神々しいまでの生命力を詠んだのであって、この「あえて」のなかに「視力障害の娘を抱えた非力な未亡人という悲壮感などさらさらなく、一見呑気に、しかし本人は大真面目に生きている」という自らのありようを投じてみせたのがこの句であったように思われるのである。