中村真一郎『樹上豚句抄』(東京四季出版、一九九三)の一句。中村は周知のとおり戦後派の作家として知られた人物であるが、その古典への傾倒ぶりや、あるいは芥川龍之介の諸作への関心の深さを思えば、中村に俳句作品があること―中村自身は「発句」と称していたが―は何ら不思議ではない。本書は中村が自身のライフワークと位置付けていた「四季」四部作の完結からさらに九年が過ぎた頃に上梓された句集である。句集といっても各句には短文が添えられていて、エッセイ集の趣もある。この頃の心境を中村は「文学者として、生涯のすべての体験を注入してしまって、空虚な存在となった私が、衰残の身で新たに、この私の最高の作品を更に乗りこえる仕事をしなければ、わたしの誇りが許さない、という事態に直面して、現在の私は実は甚だ困惑している」と述べている(『暗泉閑話』阿部出版、一九九一)。当時の中村は、かつての「頼山陽とその時代」に次ぐ伝記として「蠣崎波響の生涯」をも完結させ、木村蒹葭堂の伝記へと歩みを進めつつあった。望月洋子はこうした中村の伝記執筆という仕事について次のように述べている。
一九七〇年代のはじめ『頼山陽とその時代』を脱稿したあと、中村氏は王朝の伝説世界と江戸の知識人世界とを含んだ長い時間のなかに、孤独な近代的自我である自分を解放していく過程―つまりその時間を自分の外にある歴史的流れとして客観的に眺めるではなく、その流れのなかに身を任せることで、自分が近代の個人という地獄の迷妄から脱出して、人間本来の生き方、人類の伝統のなかに抱かれて生きるという人生観の形成の次第を描き上げることに専念した。それによって四部作の長編小説「四季」の完成を見たのである。(望月洋子「江戸後期文人の世界」『中村真一郎手帖』水声社、二〇〇七・四)
中村は、その若き日に出会った立原道造とも堀辰雄ともちがう、あるいは堀の師事した芥川龍之介ともちがうかたちで古典と対峙するなかで独自の達成を見たのであった。中村はその喜寿の祝いの席で三人目の伝記として進行中の兼葭堂を完結させてから世を去りたいと語ったというが(小久保實「『中村真一郎』編 解説」『作家の自伝110 中村真一郎』日本図書センター、二〇〇〇)、たとえばこうした伝記の執筆が中村にとって「四季」を超える仕事であり「文学者としての誇り」に適う仕事であると目されていたとすれば、『樹上豚句抄』はむしろ、その最晩年に連載が始まった「全ての人は過ぎて行く―浣花洞随筆―」に近い仕事であったように思われる。すでに多くのエッセイを発表していた中村だが、自身の死の年に始まったこの「随筆」の連載について次のように述べている。
『甲子夜話』本篇、続篇、三篇、数十冊を読み上げたことで、江戸時代の庶民の日常生活の断片の無限の集積から、私の精神の内部に、まるでその中に私自身が暮らしているような錯覚を持つまでに、具体的なヴィジョンができ上って来た。それは現代の歴史家の鳥瞰的な通史からは味わえない経験であって、なまじ強烈な文体への配慮がないことが、二百年から百五十年以前くらいの時代の生活に自然に入って行くことに役立った。それは神経の病気で深い淵の底に沈みこんで、孤独のなかで死に直面していた私に、暖かい生活感を甦らせ、私自身の生命が自分の現に生きた四十年を遡って一世紀以上の過去にまで連続して、同じ一聯の持続と感じられるに至り、それが私の魂に、思いがけなく安らぎを与えてくれて、私の回復に大いに役立った。そうして、人生の終りに近い七十翁の私に、この江戸の気軽なジャンルを今まで自覚的に試みたことがないだけに、却って新鮮な思いで、新たに今回、試みてみたいという気を起こさせたのである。(『すべての人は過ぎて行く』新潮社、一九九八)
「神経の病気」に苦しむ中村をしばしば癒したのは江戸時代の文人たちの著作であり、その意味では最晩年における「随筆」執筆への興味も伝記執筆という仕事に対するそれとひと続きのものであったろう。ただ「随筆」の執筆がやや軽い心持ちを伴うものであったらしいことはこの序文からうかがうことができる。そして、その気分はまた、自ら「俳句まがいのもの」と称し、その句に「樹上豚」と冠しつつ、近しい人への「年賀のしるし」として限定版で制作された『樹上豚句抄』にも通底しているように思われる。
さて表題句に話を移すと、この句は開成中学以来の友人であった福永武彦とその妻の新婚生活を詠んだものであり、福永の住まいを訪ねた中村がその様子を堀辰雄に書き送った折に手紙のなかに記したものであるという。戦時下に突然結婚したこの二人の生活について、中村はこの句に添えられた小文で次のように回想している。
まことに清貧を絵に描いたような生活で、私は生きるすべに拙そうなこのか弱い女性をかかえ、いつも夢の中に住んでいるような福永がこれから、どうやって「家庭」というものを営んでいくのかと想像すると、時代の暗澹たる先行きと考え合わせて、前途に不安を覚えずにはいられなかった。
中村はそのエッセイや評論のなかで何度も福永を論じているが、そのなかでも、福永との友情を「宿命」であると述べた「福永武彦における人生の芸術化」(『すばる』一九七九・一〇)は、四〇年以上交流の絶えなかった友人であり「宿命」を共にした者からのきわめて誠実な福永武彦論であったように思う。中村はこの文章のなかで「若い福永が途方もない悪意ある虚像に包まれていたのと対照的に、中年以後の福永は純情な崇拝者たちに取りかこまれて別の黄金の虚像が作り上げられて行った」と指摘し、回想を交えながら福永の本質を示唆することに努めている。中村は福永の一生を貫いたテーマを「生活の芸術化」であるとし、あるいは〝Anywhere out of the World〟というボードレールの散文詩の表題がその要約として最適であろうと述べる。そして、福永に一貫していたこの現実離脱への憧れがその結婚生活に及ぼした影響を次のように記している。
そうした脱出衝動がしばしば共同生活者である夫人を悩ましたことは当然で、性格の全く対照的と思われた前後二人の夫人の双方がいずれも、彼の芸術に対する「人間の絆」となったと慨嘆した福永に向って、「責任はむしろ君自身の精神構造にあるだろう」と反論したことがあったが、その時、彼は珍しく素直に私の無礼な言い過ぎに同意した。
「木枯しや」の句に詠まれたのは最初の妻であったが、その結婚生活の破綻を「芸術の『人間の絆』になった」などと嘆いてみせるような福永の、(あるいは自身の本質についての無自覚からくる)ある種の傲慢さについて、中村はこのように披瀝して憚らない。だが一方でこうした脱出衝動のなかにこそ福永の文学者としての本質があると信じ、それゆえに中村をはじめ福永の友人たちは福永のこうした衝動を矯めることはなかったという。
それにしても、驚くべきはこの一文の発表されたのが福永の死のわずか二ヶ月後であったということである。中村は福永が亡くなったときのことを日記(一九七九年八月一二日)に記している。
夫人の目顔に導かれて、布団のしたの福永の手を握る。
この骨太の大きな、彫刻家のような手は、今、数十年のペンの労働から解放されて、徐々に熱を失って行きつつあるのである。
暁近く、遂に呼吸がとまる。
窓外に拡がる高原の朝。異様な静けさ。
私は生涯、この朝の光景を忘れないだろう。(略)
さて、中学入学の当初から、五十年間、一年の切れ目もなく続いた古い友情は、ここにひとつの終止符を打った。喪心のうちに部屋へ戻り、仕事を続けようと考える。他にすることが何があるか。
福永を看取った後、中村は「仕事を続けようと考える」。翌一三日の日記には「仕事はわれらの生涯の、唯一の共通の情熱であり、特に『芸術家信仰』が一生の主題であった福永には、神聖なものでさえあった。私がこうして平常通り原稿用紙に向っているのは、彼の魂の平安を祈る、長年の同士としての追悼の行為のつもりなのである」とある。このとき中村は六一歳であった。小久保實は五〇歳になった中村がそれまで無限だと考えていた人生が有限であることに気づいたことや、同じく五〇代での大患や老年の自覚から「年代の危機感」を抱くようになったと指摘し、さらに旧制高校の同級生などの訃報が急に多くなったことに複雑な思いを抱くようになったと述べているが(前掲「『中村真一郎』編 解説」)、この時期の中村はまた、自身が藤村の「夜明け前」にさえなぞらえた「四季」四部作の執筆のただなかにあった。
その少年時代に「ほとんど毎年わが家を訪れた死」の「葬列の先頭のすべてに、(略)常に私が新しい位牌を持って、菩提寺までの道を歩かされた」という中村だが(『愛と美の文学』)、五〇代以降に出会った死は異なる意味を持っていたのであろう。いわば少年時代のそれが「死の影の下に」を生んだのであるとすれば、五〇代以降のそれは「四季」を生んだのである。少年時代とは異なる意味において多くの死に立ち会いつつあった中村が、福永の死後をも生きることになったとすれば、先の福永論は、たんに福永論にとどまるものではなく、中村自身が福永の死後をいかに生きるかという問題とも鋭く切り結ぶものであったように思われる。たとえば、この福永論のなかで中村は福永の最晩年の姿を次のようにとらえている。
彼が私に向って最後の脱出の夢を語ったのはもう体力もずいぶん衰えてからのこと、数年前であった。彼は人生の最後を、外国、たぶんヴェネチアであったかと記憶するが、に遁れ住みたいと言うので、それは願望の告白というのでなく決定の通告という形をとっていたが、私は彼の痩せた肩の背後に、遠い西の運河の街を映した淡い蜃気楼の立ち昇るのを見ただけだった。そしてそのような詩的幻想のおのれの孤独を託している彼を友人として本当に可哀そうだと思った。ボードレール的な「旅へのいざない」は、ついに永遠に出発を持たなかったのである。
「宿命」の相手の最晩年をこのように書く中村に、自身はどのように見えていたのだろうか。中村は最晩年に「戦後派として死ぬ」なる一文を記しているが、そのなかで「次の文学世代」が「私たち『戦後派』の仕事に対して」批判的な態度をとっていることについて「次の世代のそうした態度は、私自身の仕事に対する自己評価に何ら動揺を与えなかった」と述べている(前掲『すべての人は過ぎて行く』)。これは決して老作家の居直りとばかりはいえないだろう。僕にはこのような居直りのなかにこそ、ついに詩的幻想におのれの孤独を託すほかなかった福永の死後を生きる者としての中村の、あやうくも切実な最後の賭けのありようが見えてくるように思われるのである。いったい、次の世代の評価に動揺することなく「戦後派」として死ぬことを公言する中村と、自らの人生の主題に最後まで執着する福永とは、どれほどの違いがあるのだろう。福永が「可哀そう」だというのなら、中村もまた「可哀そう」なのではなかったか。
だが、福永の死後を生きるということの困難についてそのようにばかりとらえるのはあまりに単純だし、何より傲慢であるに違いない。中村の困難とは、むしろ、この「可哀そうさ」をいかに超克するかという問題と、さまざまな風圧に耐えながらこの「可哀そうさ」のなかにいかにとどまるかという問題とを同時に引き受けながら生きなければならなかったことにあるのではなかろうか。そして、ここにおいて「木枯しや星明り踏む二人旅」は、僕たちの前に、それが詠まれた当時とはいささか異なる表情で立ち現われてくる。すなわち、この句には旅立ちを夢想しつつもついに旅立つことのなかった福永の姿が後付けされ、のみならず、いかにも気軽な心持ちでこの句を再び呼び起こした中村の行為そのものが、中村の困難を示唆しているように思われるのである。