【34】石蕗の花博士小唄を唄はるる     徳川夢声

 徳川夢声『いろは交遊録』(ネット武蔵野、二〇〇三)の一句。本書は一九五三年に鱒書房から刊行されたものの復刊である。交遊録の名の通り夢声が自らとかかわりのある人々について書いたもので、「いろは」順に四七名が並ぶ。幅広い分野で活躍し、かつて『週刊朝日』で連続対談「問答有用」のホスト役を務めていた夢声だけあって、本書に記されている人物は湯川秀樹から木村義雄まで多岐にわたる。表題句は本書にも多く登場する「いとう句会」のメンバーの一人、宮田重雄を詠んだものである。言うまでもなくいとう句会は俳人のみならず小説家、画家、俳優、実業家らが名を連ねた句会で、その名は一九三四年にその第一回が開催された「いとう旅館」に由来する。『現代俳句大辞典』(三省堂、二〇〇五)には「大場白水郎、久保田万太郎らが、槇金一(虎眼亭)夫人が渋谷で営む旅館「いとう」を会場に始めた」とあるが、加藤郁乎『俳の山なみ』(角川学芸出版、二〇〇九)には次の記述がある。

 いとう句会の生みの親であり、昭和五年に「俳諧雑誌」休刊の後を継いでみずから音頭をとって創刊した「春泥」、さらには昭和十年に創刊した「春蘭」を後援してきた内田誠は随筆家として知られる。(略)いとう句会については付き合いの長かった大場白水郎が「春蘭」昭和三十年十月号の水中亭追悼号(内田誠は水中亭と号した―引用者注)に、槇金一が後添えとした園女に渋谷大和田で「いとう旅館」を開業させ、その二階で句会を開かせた生みの親は水中亭だった、と念を押して回想している。

ちなみにここで触れられている『俳諧雑誌』については、戸板康二が次のように記している。

籾山書店発行の第一次『俳諧雑誌』は籾山仁三郎を主宰者として大正6年1月創刊。本日入手の『俳諧雑誌』は、大正12年6月(第7巻第6号)を最後に発行が途絶えていた第一次の復活号として発刊したもので、大場白水郎こと大場惣太郎の主宰。この第二次『俳諧雑誌』は昭和4年2月をもって休刊し、翌年3月創刊の『春泥』へと引き継がれることになる。『春泥』は「いとう句会」の母体となっているので、「いとう句会」のルーツは『俳諧雑誌』にあるのだった。http://toita1214.exblog.jp/14044015/

いずれにしても「いとう句会」の創始に内田誠が深く携わっていたことがうかがえるが、夢声もまた本書において「いとう句会」について書いている。

 昭和八年、麦秋のころ、私の前妻は重患で入院した。その前後から私は、妙に俳句が作りたくなった。そこで、友人内田誠君に頼んで、私のために句会を催してもらうことになった。話がのびのびになって、その句会は翌年の四月二日夜、渋谷〝いとう旅館〟で催された。そしてこの運座が、計らずも〝いとう句会〟なるものの、第一回と相成った。

この記述に従うなら、もともとは夢声のふとした俳句熱が内田を経由していとう句会を生んだものとも思われる。なおこの第一回で夢声は「ふてぶてと烏賊の刺身や春の宵」という句で最高点を獲得している。
さて、表題句であるが、宮田重雄は夢声と家族ぐるみの付き合いのあった医者であった。句中の「博士」とはそのあたりを指しているのであろうが、宮田はまた、梅原龍三郎に師事し文展の審査員にまでなった画家であり、戦後「話の泉」「二十の扉」といったバラエティー番組の出演者としても知られていた人物であった。夢声は宮田を「芸能を職業としていない、芸能人」と評しているが、その宮田についての記述は次のような書き出しから始められている。

大変な笑い声だ。豪快なる笑い声でもない、壮快なる笑い声でもない、一種奇怪なる笑い声である。

夢声は宮田の「少しも暗い影がない」笑い声を紹介した後で、一九四五年八月一五日の回想へと筆を進める。この日の夜、宮田はこっそりと夢声宅を訪れた。宮田は「さびしいから、やってきたよ」という。夢声は茶の間に宮田を迎え入れ、昨日から今日までの出来事を話す。すると、宮田もまたその日の出来事を話し始めるのである。

彼は、この日の田無工場(中島飛行機分工場)の模様を報告した。
「院長としてね、一場の訓示をしたんだが、どうも涙が込み上げてね、喋ることができなかったよ」
と、彼は言いながら涙ぐんでいた。彼は工場附属病院の院長様であったのだ。だんだんと話すうち、病院の葡萄酒、タンシャリベツ、橙皮シロップなどがいつの間にか盗まれてる話となった。甘い物の不足も、極点に達してるときなので、無理もない犯罪である。
「ねえ、他人に盗まれるくらいなら、院長がカッパライたくなるよ」
と、院長が言ったので、思わず私たち一家の者は笑い声をあげてしまった。これが、我が家に於ける、敗戦後第一の朗笑であった。
 それが、キッカケとなって、いろいろ戦争中の苦しかった話、辛かった話などが出てきたが、こうなると何もかも可笑しい。

僕はこうした笑いのなかにこそ、八月一五日を経験した者の倫理のありようを見る。この笑いを前にすると、たとえば、坂口安吾が「堕落論」で示した倫理などは色あせてしまうようにさえ思われる。自らが盗みを働くことも辞さないかのような宮田の発言は、むろん冗談にちがいないが、しかしながら、ただの冗談であればこれほどの笑いになっただろうか。ここにあるのは、極度の物資の欠乏状態と、実際に院内で窃盗が行われているという状況とが、この発言のまことらしさの裏付けとなっているが故のおかしさであろう。このアモラルな笑いが、心身ともに少なからず困窮していたはずの戦時中の生活を笑い飛ばそうとする衝動を引き寄せたのは、だから、当然のことであった。
改めて句に立ち戻ると、小唄をうたう宮田を「博士」といい「唄はるる」と大仰にいってみせたのは、小唄をうたう医学博士という取り合わせのおもしろさをいかにもあけすけに示そうとしたもので、その点についていえば作為の見え透いた表現ともいえる。だからどうかすると、本書の安倍能成についての記述にあるような、宴席で女性に小唄を歌わせておいて自らは「伴唱」と称して輪唱の真似ごとをする安倍文相の滑稽さのごときを想起しかねないけれども、上五の「石蕗の花」をふまえるならば、この句から滑稽な趣ばかりを読みとるのは早計であろう。「石蕗の花」といえば、いとう句会で指導者格をもって遇されていた久保田万太郎もいくつか句を遺している。

ふつつりと切つたる縁や石蕗の花
仮越のまま住みつきぬ石蕗の花
石蕗咲けりけさしぐれたるあときえず
引つ越して来て雨ばかり石蕗の花
半生の暗き半面石蕗の花

ウェットな叙情の表出がいかにも万太郎らしいが、たとえば石蕗の花の高名句として「つはぶきはだんまりの花嫌ひな花」(三橋鷹女)があるように、石蕗の花には明るさよりも寂しさや暗さを想起するむきがあるのかもしれない。とすれば、「唄はるる」なる修辞も決して行き過ぎたものではなく、むしろこの句のおかしみと寂しみとの微妙なバランスを構成するものであるように思われる。本書巻末の解説で岡崎武志は夢声の文章を次のように述べている。

 俗語を交ぜながらの喋り言葉を基調に、漢文くずしの引き締まった叙述を挟み込む。視覚的効果をねらった表記の工夫もされてある。(略)さまざまな表現や語彙のバックボーンがあって、それらを手中で転がしながら、自在に紙つぶてのように投げていることがわかる。

たしかに夢声の文体にはある種の自在さがある。岡崎はまた、話すように書いているようでその実さまざまな工夫を凝らした見本のようなテキストであるとも評しているが、こうした自在さやライブ感は夢声の俳句表現にも通底するものであろう。逆にいえば、それは夢声の句の一見不用意とも思われるような饒舌さにも繋がっている。実際、表題句において「唄はるる」と詠じた心もちは、「博士」に宮田重雄を想起するそれと一続きのものであったろうし、そうであればこそ、「唄はるる」という修辞の饒舌さも、石蕗の花の寂しみも生きてくるのではあるまいか。そしてまた僕は、あえて内輪話に終始しようとするかのような句の姿に、夢声の句作の誠実さを思う。いったい、このような限りなく私的なコードにまみれた句は誰のためにあるのか。いうまでもなく、夢声自身のためであり、あるいは夢声の知人や俳句仲間のためであり、宮田重雄のためである。夢声には宮田の他にも周囲の人々を詠み込んだ句が少なくないが、遠慮なく周囲の人間を詠む夢声にありようには人間が人間を詠むということに対する誠実さがある。そして、夢声の文体もまたそのような遠慮のない句作のなかで生きてくることがあるのである。そういえば、本書巻頭で夢声は次のように書いていた。

 結局、世の中で何が一番面白いかというと、やっぱり人間との交渉である。昆虫も面白い、植物も面白い、天体も面白い、みんな面白い。けれどもそれは、人間あっての面白さである。