【37】此所に陶工としてはこべ花咲く     内島北琅

 内島北琅『古陶の味』(富書店、一九四七)の一句。著者の内島北琅(北朗)は尾形乾山門下の陶芸家である。俳句は筏井竹の門に学び、のちに河東碧梧桐に師事した。『層雲』の一員としても活躍し、荻原井泉水没後は発行人を務めている。北琅には句集『光芒』もあるが、ここではエッセイ集『古陶の味』をとりあげてみたい。
北琅は一九四二年から一〇年間長野県の安茂里に居住しているが、本書は主として安茂里移住後に記した身辺雑記をまとめたものである。一八九三年に生まれ一九七八年に没した北琅は尾崎放哉や種田山頭火らと同時代の人であって、本書にも放哉や山頭火についての記述がみられる。

 私も家庭を持たず、陶工と云ふ固定した窯を要しない仕事であつたなら、定めし旅から旅に流れ歩いたにちがひない。(略)昔から俳諧の道に遊ぶ者は、大方放浪性をもつてゐたと見える。私の俳友尾崎放哉氏は、四国小豆島の南郷庵の堂守となつて
    せきをしても、ひとり
と云ふ句を作り、遂に孤独に徹して死んで行つた。次に種田山頭火氏は法衣をまとつて、乞食生活に身を托してゐた。
    漂々として水を味はう
と云ふ句があつた。彼れらは意気地無しのやうにも見へるであらうが、甚だ勇敢な人達のやうに、私には考へられる。仲々に生活のキヅナは断ち切れないものである。世の中を捨て切る事は、自分を生かし切る事であると、彼れらの作品は物語つてゐる。

一方で、放哉も北琅にまつわる一文を遺している。二人の交遊がどのようなものであったのかがうかがえる文章である。

北朗襲庵の通知が実は一ヶ月以前から已にその予告があり、殊に最近、北朗自身その例の名筆をふるつて姫路より来信して曰く、姫路の展覧会大成功裡に終りそれから跡片付やらなんとかかんとかして二十六日には正に庵に行くべしと、愈和寇襲来と思つて、毎日毎日待つたの待たんの。(略)こんな風で或は一日や二日位早くやつて来るかも知れぬと心待ちにして居たのだが、絶望に終り、遂に二十六日となつてしまつた。二十六日は北朗自身で知らして来た日故、之はまちがひあるまいと思つて待つた待つた。処が、朝の船でも来ない、昼の船でもやつて来ない、たうとう夜になつてしまつた(略)
「イヤそれがね、実は姫路の展覧会の収入を全部妻君に持たせて返してしまつたので、北朗カラツけつ也、故に妻君は大に安心してると云ふわけだ」、「ウフ……さうか、さうか、わかつた、わかつた」、「ソレニネ今一度丸亀市で展覧会を開いて大に四国人の壺に対する識見の蒙を啓かうといふ考なのだ」、「さう云ふ事なら何日でも居てくれ、そして二人で大に句作しようぢやないか」、「その事その事、わしも大に君と句作しようと思つてやつて来たのだ」、「さうかさうか」、(略)……今夜の庵の賑かなことかな、但之も亦五日後にはモトの静寂の庵に帰らなければならない、イヤそんな事思ふまい思ふまい。
 日日是好日の筈では無いか、……放哉もいつしか寝込んでしまふ。扨これから北朗五日庵に居たのだけれ共、今書かうと思つても書くことが無い、不思議なことだが、なんにも無いやうな気がする、マトマツタ事がなんにも無い、只馬鹿な顔をして、二人でゴタゴタしてニコニコして居たものと見える、第一、放哉も北朗も、ソレ程意気込んで居た句が一句も出来なんだことを以つて見ても、たゞ、ボンヤリして喜んで居たことが解ると思ふ。中津の同人、丁哉氏が送つて来てくれた、小供が三人で蟹に小便かけて居る絵を壁にはり付けて放哉が毎日見て喜んで居るのだが、之を二人で眺めては、只五日間と云ふものニコニコ、ゴタゴタ、して居たものと見える(尾崎放哉「北琅来庵」)

殊に末尾に記されている何をするでもない二人の様子は、彼らの交遊がそのような性質のものであったのかを端的に表しているように思われる。そうであればこそ、「但之も亦五日後にはモトの静寂の庵に帰らなければならない、イヤそんな事思ふまい思ふまい」という放哉の一抹の寂しさが切実なものとして立ち現われてこよう。また、自らの友人をして「遂に孤独に徹して死んで行つた」者となす北琅が、同時に「意気地無しのやうにも見へるであらうが、甚だ勇敢な人達」ともいいながらも、そうした印象が他者の犯すべからざる自らの意志を起点としていることを示唆するべく「私には考へられる」と言い添えた心持ちは、こうしたやりとりを踏まえたときにようやく見えてくるようである。
ところで、放哉の文章にも記されているように、東京、瀬戸、京都と拠点を移しつつ、自らの作品を携えては全国を行脚していた北琅の生活もまた旅とは切り離せないものであった。一方で、安茂里に定住すべく一九四二年末に居を移したころの心境を北琅は次のように記している。

陶工として、自分の窯を築く、まことに一生に幾度とない喜びなのである。それを静かに、雪に埋もれながら、夢見る気持ちは何とも云へぬものであつた。しばらくして、
    此所に陶工としてはこべ花咲く
と云ふ句が出来た。裾花川のほとり、春の光が流れ始める頃、道のべの残雪の間だ間だに、夫れこそ彼の春の目覚めである。美しい春泥が顔を出す。すぐ緑の色がにじんでくる。その浅い緑の中に、薄い紫の色を持つた、可憐なちいさい花が咲く、それがはこべの花であつた。
 長い住み慣れた京都を離れ、この山国にかくれ住む、陶工としての私、五十歳にして始めて安住の地を得て、此所にこそ、自分の後生を養ふ可しと思つたのであつた。唯平々凡々たる、一無名の陶工として、はこべの花の如く、雑草として野辺に咲いてゐて、それでけつこうであると思つたのである。

結果的に北琅は一九五二年に京都に戻っているが、本書を読む限りは安茂里を最後の住処と考えていたようである。「一無名の陶工として」生きようとする北琅がこのとき意識していたのは長野の陶工たちのありようであったろう。北琅は松代焼を「信州陶器の代表的の物」として本書でも高く評価しているが、その陶工たちについて次のように書いている。

種々な器も造つたが主として日用品雑器であつた。松代焼の有難さはそこにある。(略)陶工は郷土の人々の台所に使はれる雑器を黙々として造り、精進を重ねて行つた処に命があつた。民芸は左様でなくてはならない、彼らは決して名を売らず、名器を求めず、無名の陶工として一生を終つてゐる。

北琅は本書で井泉水の「日本の北琅となるなかれ、信州の北琅となるべし」という言葉を引きつつ、自ら「信州の北琅となるなかれ、安茂里の北琅となるべし」と語っているが、そもそも北琅が「一無名の陶工として」晩年を過ごすことを決意したのは「繁雑の京都」から逃れるためであった。ここでいう「繁雑」さのうちには、「有名」な陶工であるがゆえのさまざまなしがらみも含まれていただろう。安茂里での初窯の作品のほとんどが地元ではなく全国に散じたことに対する北琅の苦悩にも、そうした「繁雑」さが関係してはいなかったか。孤独な生活を送った放哉や山頭火を「勇敢な人達」といい、「仲々に生活のキヅナは断ち切れないものである」といったのは、「無名の一陶工」になりきれない自らを顧みての言葉であったのかもしれない。
ただ、北琅は安茂里において「一無名の陶工として」生きることでこの山国に新しい「キヅナ」を立ち上げようとしていたのであって、その目指すところは放哉や山頭火とはおのずから異なるものであったろう。それを思うとき、表題句において、「はこべの花」が―ややいびつな文体をもって―陶工として生きる決意と取り合わせられていることは、看過できないことであるように思われる。北琅は先の文章において「美しい春泥が顔を出す。すぐ緑の色がにじんでくる。その浅い緑の中に、薄い紫の色を持つた、可憐なちいさい花が咲く、それがはこべの花であつた」と述べているが、「春泥」についてはまた次のように記しているのである。

春泥を見ると、陶工は先づ仕事を考へる。今年は何処の土を以て、何を作らうかと、楽しい計画を夢みるのである。

「今年は何処の土を以て、何を作らうか」と夢見させてくれるのが春泥であるとすれば、いまや安茂里の一無名の陶工として生きようとしている北琅にとって、春泥の見させてくれるそれは、このような「夢」とはやや異なる趣をもっていたのではなかったか。それは、いわば「今年も」「此所の土を以て」作るという夢であろう。そしてそれは、「此所」の春泥から芽生え、「此所」に咲くはこべの花のありようと似ている。