【38】楠千年 さらに今年の若葉かな     荻原井泉水

山﨑宏賢『ひとすじの道』(東山学園、二〇〇二)の一句。山﨑は東山学園理事長を務めるとともに東山高校・中学校校長を務めた人物である。本書は山﨑が学校行事の折に生徒に話した法話を収録したものである。
考えてみれば、子どもの頃、式典や行事の際に聞いたいわゆる「校長先生のお話」のなかで短歌や川柳、そして俳句が引用されることがあったような気がする。そこで引用される俳句がどのようなもので、どのような文脈において引用されていたのかはあまり覚えていないけれど、こうした経験を持っているのは僕だけではあるまい。

近頃は桜も散り果てて、にわかに若葉の美しい季節となりました。今日から全国的に緑の週間が始まります。若葉の素晴らしい緑の色は、到底絵具では表すことのできない美しい色です。
「楠千年 さらに今年の若葉かな」
という俳句があります。千年もたったかと思われるおおきな太い幹の楠です。もう衰えを見せる樹齢なのに、今年も昨年に変わらず、いや昨年よりもさらに盛大に、勢いよく若葉が萌えたっているよ、というのであります。

ここで紹介されている句は荻原井泉水の「くすの木千年さらに今年の若葉なり」のことであろう。山﨑は上記のような解釈を披露した後、さらに次のように話を進めていく。

 古い葉はまだまだ名残惜しくて、木にとどまっていたいでしょう。しかし間近に芽を吹いてくるわが子のために、新しい命の誕生のために、いさぎよく住みなれた枝から、はらはらと風もないのに散って行くのであります。私は毎年この季節になると、楠の大樹を見上げながら、落ちてくる古葉に「ご苦労さんだったね」と声をかけてやりたくなります。そうして、親の養分を貰って光り輝く若葉に、親のご恩を忘れるなよ、と呼びかけたくなります。親の犠牲の上に成り立っているからこそ若葉は美しいのです。

ここで山﨑は明らかに若葉を生徒に見立て、あるいは古葉をその親に見立てている。そうすることでこの句の解釈はいつのまにか道徳論へとスライドしていくのである。そもそも山﨑が井泉水の句を引いたのは、「浄土宗をお開きになった法然上人のお徳を讃えると共に、現代に生きる私たちが、間違いのない生きかたをするにはどうしたらよいかを、じっくり考え、先人の尊い教えを少しずつでも会得させていただく心の修養の日」である「聖日」に際して生徒に語った法話のなかにおいてであった。いわば、道徳を語るために俳句を用いたのであって、その逆ではない。もう一つ別の例を挙げてみよう。

 谷木因という人の俳句に、
『裏を見せ 表を見せて、散るもみじ』
というのがあります。
 陽の光に照り輝いて、極楽浄土をほうふつとさせるように、全山真赤に染めていた紅葉も、やがてはらはらと風もないのに散っていきます。高い梢からゆっくり舞い落ちて来る紅葉を、じっと見ていますと、どの紅葉も決して表だけを見せて散るのではなく、表をみせたり裏を見せたりして、くるくる身をひる返しながら散っていくというのです。

山﨑は木因の句についてもこのように補足をし、その直後に「美しい面ばかりを見せるのではなく、醜い裏側も恥ずかしがらずに見せているということです」と述べる。そしてこのあたりから次第に道徳に関する話へと移行していくのである。

人間はとかく恰好良く見せることばかりに気を取られるようです。(略)どうして自分は悪かったと、素直にさらけ出す勇気を持たないのでしょうか。紅葉は、何のてらいもなく、自然に身を任せて、純粋に、裏側を見せ表側を見せ、有終の美を飾るのであります。どうか秋には、この散る紅葉に多くを学んでいただきたいと思います。

このような山﨑の語りにあっては、「裏を見せ 表を見せて、散るもみじ」は理想的な人間像を示した句へと変貌している。この句の読み手はそこに示された紅葉のありようにこそ「多くを学」ぶべきであって、また、この句をそのように読んでもらいたいからこそ、山﨑はわざわざ法話の中で俳句を引いているのである。
山﨑は法話において俳句のほかにもことわざの類を多く引いているが、それは、こうした言語表現を方便として活用しているためである。たとえば、山﨑の語りにおいては「藤井実応御門主」の人がらをあらわす言葉として引いた「実るほど頭を垂れる稲穂かな」も、「苦しいこと、悲しいこともあるかわりに、楽しい幸せなことも隣合わせにあるのが人生」であるということを語るために引いた「人間万事塞翁が馬」という故事成語も、親の恩を忘れないことの大切さを語るために引いた「楠千年 さらに今年の若葉かな」も、どちらも方便であって、このような語りのなかでは、極端なことを言えば、それが俳句であるか否かはほとんど問題にならない。俳句がことわざや故事成語と同じレベルのものとして語られるのは、たとえばこういうときであろう。