【39】もろもろの悩みも消ゆる雪の風     和田久太郎

秋山清『ニヒルとテロル』(川島書店、一九六八)の一句。本書は一九五七年から六八年にかけて書かれた秋山清の評論を収録した評論集である。本書では「テロリストの文学」と題して菅野スガ子の短歌、村木源次郎の詩などが紹介されているが、そのなかでテロリストの俳句としてとりあげられているのが和田久太郎のそれである。刑務所のなかで詠まれた俳句をとりあげるのであれば、和田久太郎の名を逸することはできまい。何しろ、和田の句は芥川龍之介から次のような賛辞を贈られているのである。

和田久太郎君はおそらく君の俳句の巧拙など念頭に置いていないであろう。僕もまた、獄中にいる君の前に俳壇をする勇気のないものである。しかし君の俳句は幸か不幸か僕を動かさずには措かなかった。僕は前にも言ったように、何も和田君のことは知っていない。けれど僕は『獄窓から』を読み、遠い秋田の刑務所の中にも天下の一俳人のいることを知った。(「獄中の俳人 『獄窓から』を読んで」『芥川龍之介全集』第一四巻、岩波書店、一九九六)

芥川はまた、斎藤茂吉に宛てた手紙の中でも次のように書いている。

この頃福田大將を狙撃したる和田久太郎君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存じ候。(一九二七・三・二八)

芥川をして「天下の一俳人」といわしめた和田久太郎についてはすでに評伝の類がいくつか書かれているが、本書の略歴によればおよそ次のような人物である。

 和田久太郎は一八九三年(明治二六)兵庫県明石に生まれ、病弱で高等小学校も出られなかった。一二歳のとき大阪に出て株屋の丁稚となり、一五歳で酔蜂と号して俳句の運座に連なり、碧梧桐に傾倒、二〇歳(一九一二=明治四五)のとき同人の一人に加わって「紙衣」を発刊した。放浪、漂泊、自殺未遂などを経て、新聞配達、俥引、夜店の古本屋などを働き、堺枯川と知り、二三歳で上京して社会主義運動に入った。二六歳(一九一六年=大正五(ママ))のとき大杉栄のサンジカリズム運動に協力し、以後無政府主義者として活動した。関東大震災のとき大杉栄、伊藤野枝らが殺害されたことの報復を年として一九二四年(大正一三年(ママ))九月一日、戒厳司令者たりし福田雅太郎を狙撃して果さず、捕われて無期懲役をいいわたされ、一九二八年(昭和三)二月二〇日秋田監獄で自殺した。
 遺著に『獄窓から』がある。

秋山は和田の句が『日本プロレタリヤ文学大系』(第二巻、三一書房、一九五四)に収録されていることに触れ、和田の句をプロレタリヤ俳句として分類することに疑義を呈している。たしかに次のような句を見る限り、秋山の指摘はさほど不自然ではない。

蝶とぶや誰が雀に投げた飯
昂然として百合の芽青きこと二寸
囀りや膳の茹で菜も花のまま
のどの中へ薬塗るなり雲の峰
掃きよせし埃り色ある小春かな

和田が俳句をつくったのは、酔蜂と号していた二〇歳頃までと、福田雅太郎を狙撃して秋田監獄で自殺するまでの四年間がその主たる期間であった。秋山は後者の期間における俳句について、「最晩年の彼の獄中作品のほとんどは自己慰安の文学であり、自由のないその日暮らしの心を休める花鳥諷詠であった」と評している。俳句史を繙けば、橋本夢道や栗林一石路が『層雲』と訣別して『旗』を創刊したのが一九三〇年、さらには『俳句生活』の創刊が一九三四年であったことからわかるように、大正末から昭和初期にかけてはプロレタリヤ俳句の勃興期であり、社会批判や社会変革を意図した俳句が生まれ始めた頃であった。このような時代にあって、かつて新傾向俳句に傾倒していた和田がむしろ花鳥諷詠的な作風へと傾斜していったということは、それ自体興味深いことだが、僕の関心はむしろ、なぜ秋山がわざわざ和田を―見方によっては夢道や一石路ほどにその表現の追求をなしえなかった一人の未熟な書き手に過ぎないにもかかわらず―語らずにはいられなかったのかということにある。

 しかし、「紙衣」の句はもちろん、獄中吟にしても、酔蜂の主義や主張はこれらの句からは汲みとれず、かえって自嘲や諦めやニヒルが感じられるのは何故であろうか。俳句という東洋芸術の特殊性のためであろうか。(瓜生敏一「紙衣について」『天の川』一九五一・八)

実際、和田の句をこのように評するのはそれほど難しいことではない。だが、実は秋山にとって「主義や主張」の汲みとれない俳句こそ、まさに「テロリストの文学」と呼ぶにふさわしいものであったのではあるまいか。

 テロルを決意する、そのことはすでに一つの人間的到達であるが、それによってテロリストその人の人間的トータルが急に巨大になるのでもなければ、思想が潤沢に豊富に、あるいは正しくきびしく、飛躍するなどとぼくは考えない。テロリストもやはり、そこらの世間にとつおいつしている人間の中の一人びとりである、と僕は主張したいのだ。(略)いいかえれば、テロリストは頭の先からつまさきまで寸分の狂いなくテロリストであるのではない。テロリストはテロルを遂行するときにだけ完全にテロリストである。(略)もう一ついえば、彼らの最高の表現は詩や歌ではなく、それはテロルの遂行でなければならなかったのだ。

ここで表題句について話を移せば、この句は和田の辞世の句として知られるものである。鼻紙に薄墨で書かれていたこの句が発見されたのは和田が獄中で縊死したのちのことであった。鼻紙には何度か推敲した形跡が見られ、それによればこの句ははじめ「もろもろの悩みを消せる雪の風」であったらしく、次いで「もろもろの悩みも消える雪の風」とし、さらに「消える」を「消ゆる」に直してようやく出来上がったのがこの句であった。和田が自殺の直前に俳句を遺したということ、そしてその俳句を執拗に推敲したことについて秋山は「私は、獄中の和田にとって俳句は『玩具』だといったが、その考えを私はひるがえそうとは思わない」とし、さらに次のように述べている。

 テロリスト和田久太郎が、その企てに失敗して捕われたとき彼の生涯は終わったのである。成功しようが失敗しようが、それはただ一度きりのもので、やりなおしのきく仕事ではない。(略)大杉栄ら三人を殺した憲兵甘粕は軍法会議で一〇年の刑、二年もまたず仮出獄したというような世のなかで、国家権力に反抗する無政府主義者として和田は、無期懲役になったのである。すでにその反抗的人間無政府主義者和田の生涯は終わっていたのだ。
 生きていたのは酔蜂の後身俳人の久太でしかない。そして和田久太郎が自殺するとき辞世の句をこのように訂正推敲したのも、ほかならぬ俳人久太であった。いかにゆるぎない作品として、死ぬる男の心境をその一句に収めるか、それを当面の目的として、一枚のさびしい鼻紙に、チビ筆で、うす墨で、かき直し、かき加えて出来あがったのが「もろもろ」の一句であった。

和田の辞世の句はいかにもテロリストとして生きた一青年の悲劇の物語の締めくくりの作品としてふさわしいように見える。和田の著書『獄窓から』(労働運動社、一九二七)には俳句だけでなく短歌も収録されているが、「浅草十二階下の女」である堀口直江との悲恋のなかで詠まれた短歌をたどるとき、そのような読みへの欲望はますます強くなる。郷里に帰っても病毒のために納屋住まいをさせられ、医者にも診せてもらえず、家族に反抗的態度をとりつづけて死んでいった直江を、和田は「意地に生き意地に死したる彼の女の強きこころを我悲しまじ」と詠っている。秋山は「堀口直江の反抗的な死によって、自分がどう生きて死ぬべきかを、彼もはげまされたことは間違いないだろう」と述べているが、しかしながら、ここで「はげまされた」のはテロリスト和田久太郎であって、俳人和田酔蜂ではない。秋山はその慎重な読みによって、「もろもろの」の句をテロリスト和田久太郎の手から、俳人和田酔蜂のもとへ取り戻したのである。