神谷行『とりとめない話』(善本社、一九九九)の一句。神谷はジョルジュ・デュアメルの『未来生活風景―アメリカ旅行記』(筑摩書房、一九四九)の訳者だが、エッセイ集としては『追憶』(善本社、一九九四(増補版一九九五年刊))と本書がある。神谷は一九二五年生まれ。府立三中、一高を経て一九四四年に東大仏文科に入学している。一方で「この戦争に私自身を何らかのカタチでコミットしたいというのが私の正直な気持であった」のも述べているように、海軍予備学生の採用試験を受験し、翌一九四五年三月には「大竹海兵団へ入団、基礎訓練のあと大竹の海軍潜水学校、次いで山口県柳井の海軍潜水学校分校へ入校した」。太平洋戦争末期に海軍予備学生となった神谷は特攻隊について次のように記している。
所謂特攻隊の呼称は、〝自爆行〟の航空機の他に、乗員一名の人間魚雷「回天」、さらにまた、その生還が認められなかったわけではないが、多大のリスクを伴った乗員四名の特殊潜航艇〝蛟竜〟、同じく乗員二名の〝海竜〟、さらには〝震洋隊〟と称した乗員一名の高速魚雷艇にも適用された。
基地における彼ら特攻隊の士官たちの中のあるものが、〝無精鬚〟を生やし、油に汚れた搭乗服に黒の半長靴をはき、眥を決した硬い表情で、基地内を〝闊歩〟していた姿は、今でも私の脳裡に鮮やかである。
表題句は一高の同窓生であった鷲尾克己についての記述のなかに見られる一句である。鷲尾は知覧から出撃した特攻隊の一員であった。特攻隊編入時、鷲尾は一高校長の阿倍能成のもとを訪れたが、本書によれば「死ぬ覚悟は出来たか」と阿倍に問われた鷲尾は「まだ出来ていません」と答えたという。知覧の特攻記念館を訪れた神谷は、同館に飾られた鷲尾の写真について「出撃の日に撮られたものか否か、心なしか僅かに笑みを含んだ、さわやかな顔であった」と述べる一方で、阿部と鷲尾のやりとりに関しては「私はなんとも云うべき言葉を持たぬ」と記している。
本書にはひろく旅行記や回想録、読書録の類が収められているが、その序文には「所載の「沖縄」と「神風特別攻撃隊」及び「座脱と立亡」は最近の習作である」とある。そのいずれもが戦時下の記憶や特攻隊に関する記述を含んでいるのは、神谷にとってこれらが切実な問題となっていたためであろう。それは、「遠からぬ将来、私たちは〝必中必死〟とは云わぬまでも、その可能性を含んだ特殊潜航艇「蛟竜」に登場する予定であった」と述べる神谷にとってはむしろ自然なことだったのかもしれない。
〝反戦〟あるいは〝厭戦〟という気運が、当時の私の周辺になかったわけではない。
しかし「反戦といふやうな他所の写真を見て、自分が進歩的であるのと違って、戦争は一切の終焉を覚悟せざるを得ない悲劇であって、それでもその悲劇に出演する以外にない場合もあるわけであるし、もし生活が一片の詩であるならば、一片の詩のために死を覚悟するといふのはさういうことである」(吉田健一著「交遊録」より引用、原文のまま)
人生を「詩」と感ずるのも、また所謂〝反戦〟も、ともに必ずしも当時の私のとるところではなかったが、同氏の叙述は当時の私の心境に極めて近いと云ってよい。
海軍予備学生当時の心境を神谷はこのように振り返っている。神谷はまた、本書序文において次のようにも述べている。
しかしながら、半世紀前のある時期において、わが国の青年層の一部がwilly-nilly彼らの人生とその愉楽を抛棄して、かかる“hopeless mission”にその命運を委ねたこと、あるいは委ねざるを得なかったことに対し、私は〝無常感〟と〝悲愁〟を、そしてまた誤解をおそれずに敢えて云うならば、平成の今日においても、なおかつひそかな〝共感〟を禁じ得ないものである。
あらためて表題句に戻れば、本書には復員直後に詠んだ句として「春むざん 散り残したる梅の花」も収められているが、生き残った者が抱え込んだ困難を率直にうたった「春むざん」の作者の言葉は、「死者死なず」の句においては、死者への敬意と共感を伴いながらそれでも生きながらえてきた人間の言葉へと転じている。だがいずれにせよ、これらの句は、その表現自体が格別優れているというわけでも新しいというわけでもない。実際、「春むざん」の句にせよ「死者死なず」の句にせよ、ここに書かれたことはすでにどこかで見たことがなかっただろうか―それも、何かもっと「優れた」表現として?―。神谷は「死者死なず」といい、また「うらみ」といっているけれども、これをよりひろく戦時下を経て戦後を生きた者における生と死のありようを詠んだ句としてとらえるならば、いわば「一行の石原吉郎にも若かない」のではないのか。だが、そのことをもってこれらの句に価値がないとするのは間違っている。この程度の表現しか生むことが出来なかったという事態にはたしかに神谷の限界がうかがえるが、しかしながらそこには同時に、夢も希望もありはしなかったか。僕は「春むざん」の句を詠んだときの神谷の心境を知らないけれど、この句が美しいとすれば、復員の自らの姿を散り残った花といういかにもありそうな表現で謳いあげてしまっていることにおそらくほとんど羞恥を感じていないように見えるからであろう。これは「死者死なず」についても同様である。これらの句は神谷の言葉であると同時に誰かがすでに発していた言葉であって、そのような言葉をそれと知ってか知らずか神谷が改めて自らの言葉として僕たち(あるいは読み手としての自ら)に向けて発していくとき、これらの句についての僕たちのいかにも安易な理解が成立しうるというような、「幸福な」円環がここにはあるように思われる。