【43】肩書は不要なものよ翁草     芝田多佳男

芝田多佳男『帰命』(そうぶん社、一九九二)の一句。巻末の略歴によれば「本名・芝田隆雄。明治44年、東京生れ。生体リズム研究会主宰。造林学・教育学・哲学・医学に関する評論著書等多数」とある。「評論著書多数」とあるが、本書には「自費出版」と題した次の三句が収録されている。

祝出版出前の鮨に独り酌む
自費出版祝うか餌付の鳥の声
独居して三年十八冊の老を生く

「三年十八冊」とあるように、芝田には膨大な数の著書がある(たとえば一九九二年だけでも『帰命』を含め五冊以上を上梓している)。句集としては『帰命』以前に『三木野の四季』『散華』の二冊があるが、本書序文で芝田は自らの俳句観を次のように記している。

 外山滋比古氏によると、作句をしていても、俳人ではない、俳句作家でもない、俳句作者ばかり多いといわれる。私も趣味として俳句をひねっているつもりだが、俳句作者の仲間かもしれない。
 人生は百人百様で、まったく同じ人生などあり得ない。俳人であろうと、作家であろうと、作者であろうと、それでよいではなかろうか。俳句を通して、その人の生き方がわかれば、職業的(プロ)俳句でなく、趣味的(アマ)俳句であってもよいのではなかろうか。

「独生独死」をもって自らの生きる指針としていた芝田に先の三句があるのは、その人の生きかたがわかればよいという俳句観をふまえるならばごく自然のことであったろう。

生きている死なないから生きている
生き甲斐とは考えるほど分らない

たとえばこうした言語表現もまた芝田にとってまぎれもなく「俳句」なのである。芝田は『帰命』の二年前に上梓したエッセイ集『明治生れの呟き』(そうぶん社、一九九〇)で富安風生の死にふれて次のように述べているが、ここにも先の序文と同じ俳句観がうかがわれる。

 ところで、風生氏の句に「いやなこと、いやで通して老いの春」というのがある。一般の人は、このような心境になりたくてもなれるものではない。老いの一徹、頑固者、変人などと、世の批判は厳しいはずである。
 二十六歳で今の郵政省に入り、翌年から数年間、病のため休職となり、療養生活を続け、二十九歳には退職されたほど、健康には恵まれていなかった風生氏が、三十一歳で再就職してからエリートの道を進まれ次官までなられたが、俳句の道に入られたのは三十四歳ごろと聞いている。長寿を保ち得られたのは、退官後は立身出世欲をおさえて、俳句道に終始されたことによると思われる。私は風生氏の一貫した気骨が俳句にもあらわれているように思い、前述の句にあやかりたいと念じている。

さて、表題句に話を移そう。「肩書は不要なものよ」とは何と陳腐な表現であろうか。もちろん風生へのあこがれを披瀝した先の文章にあるように立身出世欲は芝田の是とするものではなかったにちがいない。たしかに、次のような教員生活を送った芝田であれば、立身出世や保身などということは眼中になかったのであろうと想像される。

 戦後、物質の不足していた時、高熱でも出校して、注射を打ちながら授業したり、熱で足がふらついて帰れなくなった私を、生徒たちはリヤカーで馬小屋を改装した引揚者住宅まで運んでくれたこと、キビ粉ばかりで昼食を欠きながら、生徒の白米の弁当に唾を飲みこみながらも弱音を吐かなかったこと、教育方針に反対して不穏な行動に出た生徒が自発的に申出るまで、クラス全員と夕方まで教室で対決したこと、試験問題を教えてくれないといって、クラス全員で白紙答案を出した時、退職を覚悟して、退校処分を主張し、その代りとして全員から謝罪文と〇点の評価をしたこと、剣道部をつくって、雪の降る早朝、寒稽古に出て、剣道衣に下着をつけていた生徒たちに、部員としての資格がないといって試合に出場させなかったこと、このことに関連して、連盟の役員から部員を高体連に出してくれれば、昇段させるという交換条件を蹴ったこと、PTA役員から生徒の処分について異議があった時、その非を認めさせたこと、教員は研究員ではないという校内の批判にめげず、授業後は階段下の狭い研究室で学究者としての努力を続けたこと、学校林視察で来校した教育長が、宿で矛盾した放言をするので強く反省を求めたこと、教育は教員だけでするものではないといって、地域の関係者と懇談する機会(林業部会)をつくったこと。………次々と思い出はつきない。「ガッツ」という渾名は、このようなところからきたのかもしれない。(前掲『明治生れの呟き』)

しかしながら、同時に、このように書くことによって自らの生きかたを執拗に他者に表明していったのが芝田だったのではなかったか。芝田がこのように生きたということはきっと事実なのだろうけれど、それ以上に、芝田がこのように書いたということのほうが僕たちにとってはまぎれもない事実なのである。そして芝田がこのように書いたという事実を前にしたとき、僕たちはまた、このように書かないということを(意識的にせよ無意識的にせよ)選ばなかった芝田のありようも想像できるのであって、ここにおいてようやく、芝田の書く行為の持っているある種の傲慢さや切実さが見えてくるように思う。
すなわち、生涯を通じて(決して少なくない数の自費出版を含む)一〇〇冊以上の著書を残し、とりわけその晩年において「独居して三年十八冊の老を生く」と詠むような生きかたを実践した芝田は、そのように生きつつ、かつ、自らの生きかたを詠むことで、芝田なりのファンタジーを見事に構築したように思われる。そのファンタジーを創造する精神は、むろん風生の「いやなこといやで通して老いの春」にあこがれる精神と地続きのものであったろう。そして、いわばこのファンタジーこそが芝田の「肩書」であったのだが、一方で、そのファンタジーを構成するために必要とされたのが「肩書は不要なものよ翁草」であったのではあるまいか。