【51】焼跡はけしの赤さで落ちつかず  市田道子

 

 

『さくらんぼ』第四号(京都府立鴨沂高等学校、一九四九)の一句。京都府立鴨沂高等学校の前身である京都府立第一高等女学校に俳句同好会ができたのは一九四六年初夏のことである。これは当時同校で教鞭を執っていた毛利由布の呼びかけによるものであった。『さくらんぼ』は同校が改称される以前から発行されていた文芸誌である。毛利の甥である石川浩(門周至)は一九四七年の『貨物列車』創刊にかかわった人物で、当時は同志社大俳句会に所属していた。この『貨物列車』はその後『楕円律』と名称を変え、現在も田吉明によって発行が続いている。『貨物列車』『楕円律』創刊前後のことについては両誌の創刊同人でもあった前田正治が次のように書いている。

戦後の「寒雷」は二十一年に九月号が一回発行されただけで、戦中から京都寒雷を支えてきた人々は、直ちに句会活動を再開しながらも、「寒雷」復刊の正常化が遅々としているのに苛立ちを覚えていた。しかし句会には文学活動に飢えていた若い世代の人々が続々と集うてきた。(略)そのころのメンバーというと、京大の上住南八男・横山楸・北速男・後藤貫太・同志社大の石川浩(門周至)・曾我芳文・風間敬一、竜谷大の正伝潤道らの諸君で、それぞれ京大寒雷俳句会・同志社大俳句会を興して相互に交流しながら、また寒雷句会にも常に参加して、気勢をあげて行った。後に京大の太秦女良夫・飴山実、三高の大和田文三郎等の諸君が加わった。
 こうした新旧の勢力が一つの坩堝となって、中央の動きを待たず、地元で同人誌発刊の構想が生まれた。(略)表面だった主力としては京都寒雷の中西香夢氏のほか、矢沢白城・蓮池富生・山中冬生・並木鏡太郎・波多謙治(土屋欣三)・佐々木邦彦・上住南八男と小生の九名を同人とし、中西香夢選の雑詠欄を設けた。そして若い諸君はその投句者として活躍したが、発行所を拙宅に置き、編集はもっぱらこの若いエネルギーによって営まれた。(「創刊前後」『楕円律』一九八三・五)

『楕円律』の前身である『貨物列車』創刊までの事情はおおよそこのようなところであった。一方で、『貨物列車』の創刊された一九四七年には『寒雷』の発行も正常化するなど情勢の変化もあり、結局同年に『貨物列車』は終刊となり、翌年五月に『楕円律』が創刊されることとなった。『貨物列車』から引き続いて同人として残ったのは上記九名のうち上住南八男と前田正治のみで、大部分は『貨物列車』時代に投句者だった若者たちであった。先の毛利もまた、『楕円律』に創刊同人の一人として名を連ねている。いかにも若々しい顔ぶれでのスタートとなった『楕円律』だが、金子兜太は『わが戦後俳句史』のなかで創刊号の後記にある「敢て俳句文芸誌と名乗る所以である」という言葉にふれて次のように記している。

 つまり、「俳句・文芸誌」とものものしく銘打ったのは、「俳句と評論の本物を生み出す行為」だったわけで、俳句の世界に文芸評論を高々と持ち込んだのは、この俳誌をもって嚆矢としてよい。もちろん俳句評論とか俳論などと称して、評論を重視する傾向は、それこそ明治の正岡子規以来のことなのですが、ことさらに俳句という言葉を冠せず評論を大事としたのは、この雑誌が初めてと見てよい。ここにもありありと〈戦後〉が感じられていました。(『わが戦後俳句史』岩波新書、一九八五)

金子はさらに、その創刊号の特集「私小説と俳句」に興味を持ったといい、またその興味が当時の「近代化」論に対する不満と関係していたとも記している。つまり、この特集は当時の私小説批判、あるいは第二芸術論のような俳句・短歌批判をふまえてのものであって、それゆえに読者としての兜太もこの特集に関心を寄せたのであった。実際当時の『楕円律』周辺に集った若者たちは第二芸術論に対し、あるいはその非なることを訴え、あるいは句会において華々しい論争を繰り広げていたのであった(横山楸「私と俳句」『楕円律』一九八三・五。毛利優「京都府立第一高女俳句同好会について」同前)。
さて表題句に話を移すが、この句について、作者の市田道子と同じく第一高女時代から俳句同好会の一員であった林(粟津)恵子は毛利由布宛の書簡のなかで次のように述べている。

……考えてみれば私たちはあのころ十三才から十六、七までだったのですね。十四才位で「焼跡はけしの赤さで落ちつかず」(市田道子さん)などという句を作るなんて……カワイコちゃんムード一色の現在の子供たちには考えられないことだと思います。この水準の高さはどうして培われたものなのか……。(略)校外の一流の場へ私たちをためらうことなく連れて行って下さった。若いすぐれた俳人との交わりも私たちに幸したと思います。今もつゞけて句作している人は、私たちの仲間にはないかもしれません。しかしそれでよいのではないでしょうか。(前掲「京都府立第一高女俳句同好会について」)

林のいう「若いすぐれた俳人との交わり」とは、俳句同好会にしばしば蓮池富生が指導に訪れたことや、校外で加藤楸邨や先の石川浩らとともに句会をしていたことなどを指すのであろう。同じく俳句同好会のメンバーであった小林八重子は次のように回想している。

三十七年前、清水坂を同好会の人達と夕日を眺めながら歩いていました。加藤楸邨先生をお迎えしての寒雷句会(註、昭和二十一年十一月九日)の帰り途でした。張りつめた空気の漲る寒雷の方々の句に感激し、自分たちの心情風景をみつめて作句しなければ、など話し合っていました。(前掲「京都府立第一高女俳句同好会について」)

彼女たちは偶然にも終戦直後の『寒雷』に集った若者たちに近しい場所にいることができたのであった。それはいわば、「戦後派」がその最も重要な仕事を成しつつあった時代において、彼らにごく近しい場所に彼女たちが立ち会っていたということでもある。句会ではときに「すごい権幕で反論され」たり、「むつかしいと思いながらも」その俳論に聞き入るような場面があったというが(前掲「京都府立第一高女俳句同好会について」)、戦後のあたらしい俳句表現の息吹を身近に感じられる場所にいながら、彼女たちはついに俳句表現史の伴走者であるにすぎなかったのかもしれない。その意味では、俳句表現史とはいわば「彼ら」の仕事へのまなざしが生んだものであって、「彼女ら」の仕事へのそれが生んだものではなかったように思われる。けれども、いま一度林恵子の「今もつゞけて句作している人は、私たちの仲間にはないかもしれません。しかしそれでよいのではないでしょうか」という言葉に立ち返ってみるならば、この事態はまた違った趣をもって見えてくるようだ。
そもそも、彼女たちの俳句とはどのようなものであったのか。

『さくらんぼ』第一号
火取り蛾に縋る瞳あげぬ銀河まで           小林八重子
水からくりに呆けいぬ売るべき書をかかえ       毛利由布
『さくらんぼ』第二号
月今宵なすべくもなく見てゐたり           服部かをる
浮浪児の瞳雲やまぬ昼ひととき            粟津恵子
『さくらんぼ』第三号
冬濤を見ている少女に昏れてゆく           加藤明子
くひしばる葉に寒水のしむる悔            西村美智子

表題句と同じく第四号に掲載された句もいくつか挙げてみたい。

葉桜の蔭の感触友は在りぬ              小林静子
星の流れ梅雨迫りける街に黒き            同
青葉のこだまはるかに人の病みにけり         西村美智子
さようなら伯父さん旅夕しぐれ            真貝美津子
フリージャを面にまじかく棺に寝かす         毛利由布

小林八重子の回想のなかに「自分たちの心情風景をみつめて作句しなければ」という言葉があったが、いわゆる花鳥諷詠とは違う、やや自他に対する感情の吐露のようなものが、あるいは露骨に、あるいは不器用なかたちで表出されている。林田雅子は同好会に所属していた当時「泣きはれて目に鶏頭のにじみけり」という自句を蓮池富生に「泣きはれて目に鶏頭の遠きかな」に直されたというが(前掲「京都府立第一高女俳句同好会について」)、しかしながらこうしたどこか思いばかりが先に立っているような印象の句を見ていると、彼女たちが俳句形式によってこのように書けたということ自体が、まぎれもなく彼女たちが「戦後」を、あるいは「戦後」の言語空間を生きていたことを証明しているように思われてならない。たとえば「焼跡はけしの赤さで落ちつかず」における表現としての手柄は「焼跡」の「けしの赤さ」を発見したことではあるまい。むしろ、「落ちつかず」という感情の発見―そして、それを「焼跡は」とすることで自分が今まさに立つ「焼跡」を個別的体験として「焼跡」から、ある種の共有物としてのそれへと転位せしめたことにある。金子兜太は渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」について「戦争が」を「季語に匹敵する、季語を越える言葉」であると述べたが(インタビュー「金子兜太に聞く戦後」『鬣TATEGAMI』二〇一三・一一)、僕は市田の句の「焼跡は」もまたもう一つの「戦争が」であったように思う。それはいわば、「戦後」の生んだ「戦争が」であったのではなかったか。

さて、ここでもう一度林恵子の言葉に立ち戻ってみる。いったい、彼女たちはなぜ俳句をやめてしまったのだろう。しかしそのような問いが愚かなものであることを「それでよいのではないでしょうか」という言葉ははっきりと示している。このような句をかつてたしかにつくったのだという記憶こそ彼女たちにおいて大切なものなのであり、そうであればこそ、彼女たちはどこまでも彼女たち自身のものとして引きうけようとするのである。これほど誇り高い俳句史との訣別の仕方がほかにあるだろうか。