【53】こし方にかげなく老いしあさねかな  椎花

田口達三『魚河岸盛衰記』(いさな書房、一九六二)の一句。本書は一八八三(明治一六)年生まれの田口が自らの来し方を記したものであるが、日本橋魚河岸時代に堺大商店で働き始めた田口が自らの体験とともに戦後の中央市場の変遷までを綴った本書は、さながら魚市場近代史の趣をもっている。
田口は一八八三(明治一六)年に埼玉県南埼玉郡新和村の農家の二男として生まれた。当初は綿織物の卸と小売りをしていた鳩ケ谷の和泉屋に奉公に出されていたが、一八歳のお盆の藪入りで上京した際そのまま魚問屋に勤めることになった。「終生愛しつづけ、そしてまた私の生甲斐となってきた」という魚河岸との出会いはここから始まるのである。
表題句は本書冒頭に著者近影とともに掲げられたものであるが、むろん田口の来し方を詠んだものであろう。それにしても「こし方にかげなく老いし」と清廉な生きざまを詠いつつ、その言祝ぎを朝寝へと逢着させるあたり、田口の一筋縄ではいかなかったであろう人柄を彷彿とさせておもしろい。たとえば、田口の盟友ともいうべき安倍小次郎は本書に寄せた文章のなかで次のように述べている。

 近頃大会社の社長クラスの多くが山岡荘八君の徳川家康を愛読し、以て会社経営の指針としていると聞くが、彼は読まずして徳川家康の行き方を体得している。幼にして志を立て諸大名環視の中に黙々として爪牙を磨き、戦って諸大名を従え天下を取り万代不易の平和をかち得たのである。家康に似ているところはそれ許りではない。時に狸爺然として白っぱくれて平気で人を納得させるあたり真に世渡りの妙を得ている。(「柔剛を制す―田口君と私―」)

田口がまだ和泉屋に勤めていたころ、不況のために取引先の織物問屋が倒産したことがあった。和泉屋もその煽りを受けて倒産寸前まで追い込まれ、初めは十人近くいた奉公人が結局田口一人になってしまった。折しも約束手形が斬新な支払い方法として流行り始めたころであったが、この約束手形が不渡りになってしまい、和泉屋では債権者会議が毎晩のように開かれていたという。

ある晩主人が、今夜の懐疑でどんな相談になるか判らないから、お前は屏風のうしろで聞いていろというのである。いやな用ではあったが主人にいわれるままに聞いていると、
「よそうと思ったけれども、あの小僧がしつっこく頼むものだから、結局割引いて不渡りになって困ってしまった」
一人の債権者はいうのである。
「何しろあの小僧が何べんも来ては割引いてくれと頼むものだから、つい割引いてひどい目にあった(ママ)あんな如才ない奴は珍しいな」
と叱られているような、ほめられているような、子供心にも私の感情は複雑であった。

「小僧」の時代のこうした如才なさはその後堺大での仕事ぶりの記述にも散見される。たとえば、田口が取引先の拡大のために八戸でイカを買い付けた際、荷主の反対で氷を使用せずに送ったために腐らせてしまったということがあった。しかしその反省からタイを氷で冷蔵して送ったところ「東京の田口がきてタイを氷詰めで送ったら東京では飛ぶように売れた。といって青森市場でも評判をとった」というのである。おもしろいのは、田口がこうした成功譚をその大小に関わらず淡々と綴っていくところである。こうした田口の書きぶりもまた「こし方にかげな」き者らしいところであろうか。
田口は三〇歳で堺辰商店として独立を果たす(ただし巻末の略歴には「明治44年5月魚問屋堺辰商店経営」とあり本文と食い違っている)。田口は本書において二十代半ばで独立するのは珍しくなかったと述べているが、若き日の田口の独立もまた当時としては自然なことであったろう。その後関東大震災の影響で一九二三(大正一二)年に芝浦に移転(同年末に築地に再移転)するまでの間に、堺辰商店は「千三百名の組合員」と称されていた日本橋魚市場の仲買人、問屋業者のなかで十位以内に入るほどの売上高を誇るに至った。また築地移転とともに卸業者として設立された東京魚市場株式会社の社長に就任、同社の資本金は二七五〇万円で、これは「資本金で言って日本で十四番目」という規模であったという。
こうした華々しい活躍の一方で、田口は一時期刑務所生活を送ってもいる。一九三六(昭和一一)年、卸売会社は単一であるべきという国の方針のもと、東京府知事の名前で東京魚市場株式会社と東京魚問屋会社への強制合併命令が出された。結局翌年に合併は完了し、単一の卸業者として東京魚市場株式会社が誕生したのである。田口が刑務所に送られることになったのはこの間のことだ。もともと単一論者だった田口に対して、政治家などへの不正な働きかけを行ったのではないかという疑いがかけられたのである。同時期に取り調べを受けていた者に伊藤春次、鈴木亀次郎がいたが、田口は「警視庁の地下室で三十五日間調べられたあげく」、「どうしても、オレの方でもこれだけの事件に関与したんだから、一人は刑務所に送らねばならぬ」という刑事とのやりとりの末、結局伊藤、鈴木は起訴猶予、田口は予審として刑務所に移されることになった。
この刑務所での一五〇日余りの生活を綴ったなかに、田口の人柄を偲ばせるいくつかの挿話がある。田口が刑務所にいる間、「田口は刑務所で大した顔役だ」という噂が魚河岸中に広まったというのである。これは偶然同じ市ヶ谷刑務所にいた「関東屈指の大親分」である佃繁に対して、田口が嘆願を行ったことに端を発している。

所長の声につれられて、私たちの側へきた佃繁は、私の顔を見ると一瞬ケゲンな顔をした。むりもないことである。すでに刑が決まって実刑を言い渡されている彼にとっては、所長室に呼ばれるのさえ納得がいかないのに、私と所長が親しそうに談笑しているのだから。
「いま、この人とお前の話をしていたのだが、魚河岸の社長がお前のことを知っているというんで呼んだんだ。お前この人を知っているか」(略)
「魚河岸の社長から、お前は心得違いでここに収容されたとはいえ、決して恐喝や乱暴行為をする男でない。バクチ打ちでは人格者だ。決してケチなことをするような男ではない。立派な男だ、だからなるべく楽な仕事へ廻わしてくれ、と今申し込まれてところだ」
「へえ!」
「繁!いま嘆願があったところだぞ、魚河岸の社長から」
 すると、佃繁は私の方をむいて、
「親分、よろしくお願いします」
という。

田口は本書でこの噂に対し、「体の弱っている人を見れば手を借(ママ)したいのが人情で、とりたててどういった気持はない」と述べるのみである。「こし方にかげなく老いし」とは、たとえばこうした挿話に裏打ちされたものであったろう。ただ、未決囚とはいえ刑務所に入れられていた田口が実刑の決まった佃の労役に対して口出しをししかもそれが通用してしまったという話は、たとえ田口がどれほどの人格者であったにせよ、にわかには信じがたい。むろんこれは実話に違いないのであろうが、それだけに「かげなく老いし」という田口の「こし方」が決して一筋縄ではいかないものであることを思わせるのである。
そういえば、田口は護送車に乗った時の気分を「まるで子供が遠足にでも出掛けるようなハシャギかた」で「上段の隙間から煙突や煙草の看板などがチラつくと、もう嬉しくて仕様がない」といい、「そんな経験があるからたまたま護送車に出遇わすことがあっても、私はあまり可哀想だと思うことはない」と述べていた。「あさね」とは、あるいはこうした田口の泰然たる姿勢を示唆してものであろうか。