【54】梅雨空に「九条守れ」の女性デモ     七三歳女性(大宮区)

埼玉県さいたま市大宮区の三橋図書館発行の『三橋公民館だより』(二〇一四年七月号)に掲載されるはずだった一句。この句についてはすでに多くの報道がなされている。事態はいまだ流動的であるが、『東京新聞』(七月四日朝刊)によると、事の発端は次のようである。

同公民館は、毎月発行する「公民館だより」の俳句コーナーに、館内で開く俳句教室の一作品を掲載している。
作者らによると、掲載作品は、この俳句教室の会員約二十人が詠んだ句の中から、互選で一句選ぶ方式。「梅雨空-」は六月に選び、七月号に掲載予定だったが、公民館は月報の俳句欄を削除して発行した。公民館長は「世論が大きく二つに分かれる問題で、一方の意見だけ載せられない」と説明したという。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014070402000111.html

ここで「世論が大きく二つに分かれる問題」といっているのは、この句が集団的自衛権の行使反対を訴えるデモを詠んだものであることをふまえてのことらしい。この件をめぐっては表現の自由を保障した憲法二一条に抵触するとか、公民館という場の運営のありかたに問題があるとか、論点が乱立しているようにも見えるが、社会面の記事として取り扱われているためかそもそもこの句を鑑賞しそのうえで俳句表現として評価するというような記事はなかなか見つからない。昨年、山口県の連続放火・殺人事件の容疑者であった保見光成が残した「つけびして/煙り喜ぶ/田舎者」についていわゆる「俳壇」からの発言はほぼ皆無であったが、今回の場合もおそらくほとんど問題にされないだろうと思う。わずかに、先の記事のなかに「新俳句人連盟の石川貞夫副会長の話」として「戦時中に戦争に批判的な俳人が治安維持法違反で投獄された俳句弾圧事件があり、今回の問題は、将来の言論弾圧を招く「卵」のような出来事だ。軽く見ることはできない。俳句は花鳥風月だけでなく、社会問題を積極的に表現する作品もある。掲載拒否の作品は情景を素直な気持ちで描写しており、公民館は神経質になりすぎている。俳句教室が選んだ句を尊重するべきだった。」という言葉が見られるが、これもまたこの句についてというよりも、今回の事件についての発言であろう。僕には、この状況こそがこの句と俳句を詠む・読むということの現在についてのもっとも鋭い批評になっているように思われてならない。
この句を俳句表現として評価するなら、率直に言ってつまらない句であると僕は思う。このことをなぜ誰も言わないのだろう。先の記事によれば、作者は六月上旬に銀座で見かけた女性たちのデモに心を動かされ「日本が『戦争ができる国』になりつつある。私も今、声を上げないと」という思いから女性もまた行進の列に加わったのだという。そしてこの句にはその思いを込められているらしい。とすれば、この句は実に安直にできあがっている。もちろん「梅雨空」とはデモの際の六月上旬の空をそのまま表しただけの言葉ではなく、これは「『戦争ができる国』になりつつある」という日本の状況をも示唆した言葉なのであろう。また、そうした状況にあって「女性」たちが「九条守れ」と声をあげているというのは、とくに「女性」の姿をデモに見出したという点において、あるいは何がしかの感動を読み手に呼び起こすのかもしれない。けれど、この句の「女性」へのまなざしが感動や共感を呼びうるとすれば、それはここに詠まれた「女性」が社会的弱者としての性質や無名性を前提として詠まれたものであるということに疑問を持たないがゆえの感動や共感であろう。換言すれば、デモに参加する「女性」は弱い存在であり無名であるという前提があってこそ、この句は輝きを増すのである。その意味ではこの句における「女性」へのまなざしは類型的なそれを踏襲しているにすぎない。いわば、「梅雨空」という状況についての安易な比喩と、厳しい状況下において声をあげる「女性」というステレオタイプな表現とが、「九条守れ」という、カギカッコで括ることによって額面通りに読み手に伝わるよう配慮されたメッセージとともに詠みこまれているだけなのである。この句が表現として優れているという評価など、僕にはとてもできない。この句を読むに堪えないものだと思っているのは僕だけではないと思う。この句をつまらないと言ってはいけないかのような雰囲気が生まれることを僕はもっとも恐れる。僕が先に「この状況こそがこの句と俳句を詠む・読むということの現在のありようについてのもっとも鋭い批評になっているように思われてならない」と書いたのはこの意味においてである。
しかし、こんな批判や恐れなど、この句にとって本当はお門違いなものなのではあるまいか。そもそも、表現として優れているかどうかということばかりを評価基準とすること自体がおかしいかもしれないのである。なにも僕たちは俳句表現史を更新するためだけに俳句をつくるわけではない。たしかに僕たちは凡人だから結果的に新しい俳句表現を生み出せないのかもしれない。けれど、新しい俳句表現を生み出すことに心血を注ぐなどという行為が俳句形式による表現行為のすべてなのではない。「俳句は花鳥風月だけでなく、社会問題を積極的に表現する作品もある」と述べた石川が思い浮かべていたであろう俳句表現史をこの句の作者が知っていたかどうか、僕は知らない。けれど、この作者がそうした俳句史をわがこととしつつそれと真摯に向き合っているような作家ではないことだけはわかる。その意味において、この作者は俳句表現史を知らない作家であると思う。しかしそれは何も批判されるべきことではなく、むしろ俳句表現史を知らないで俳句をつくることは、それはそれでひとつのありかたとして肯定されるべきなのである。虚子を知らなければ俳句はつくれない、ということはあるまい―というより、虚子を知らなくても俳句をつくってしまうことがあるという自らのありように僕たちはもっと自覚的であっていいし、むしろ、俳句表現史と向き合うことを絶対的に肯定することによって僕たちの情けない本性を安易に隠蔽することこそ恥ずべきことなのではあるまいか。