岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(岩波書店、一九六一)の一句。本書は太平洋戦争における「戦没農民兵士」の手紙や遺書を収集しまとめたものである。同懇談会が収集作業を始めたのは一九五九年のこと。「あとがき」には次のように記されている。
仏壇の上の鴨居にかけられた、軍装姿も凛々しい兵隊の写真、私たちは農家のあちこちで、何度そうした写真を見かけ、やっぱりこの家にも……と、何度思わされ、生きて帰れたわが身と思いくらべ、複雑な感情を抱かされて来たことだったろうか。写真が私たちに何かを語りかけている。私たちはその訴えを聞かねばならぬ。何度そのような思いに駆られて来たことだったろうか。
これは当時において既に、実体験としての戦争の記憶が生々しく残りつつも先の戦争が写真のようなイメージによって呼び起こされるものと転じつつあったことを示唆していよう。あとがきにはまた「私たちの熱意を煽った」要因について、「戦争を知らない人々にも、今日ことあらためて想い起こしてもらう必要があると考えたからでした」とも記されているが、すでに「戦争を知らない人々」も無視できない存在となってきていたのである。
表題句は松下八寿雄がニューギニアから妻きさのに宛てた手紙(一九四四・五・一二着)のなかに記されたものである。松下は京都府船井郡五ヵ荘村の「田畑二反の自作農」出身の軍属であった。この手紙を認めた数ヶ月後の九月一日にニューギニアのサルミで戦死した(享年四五)。
軍隊には防諜上という理由から手紙の検閲制度というものがあり、いろいろな制約がありました。とくに戦争が苛烈になるにしたがいそれが一層きびしくなり、部隊の出動先はもちろん、手紙の常套文句でさえある、気候のことすらが、ろくろく書けず、さらに防諜とは無関係の妻子に愛情を訴える手紙すら、女々しい振舞いとして、私的制裁の材料ともなり得たものでした。結局筆にし得たものは〈滅私奉公軍務に精勤〉〈粉骨砕身尽忠報国の誠を致し〉といった、いくつかのきまり文句に限られていたかの感さえありました。
本書の「あとがき」では兵士の手紙の傾向についてこのように述べられているが、松下の手紙にもまたこの意味で典型的な兵士の手紙らしい性質がみられる。ただここで注意しなければならないのは、「あとがき」で次のような指摘もされていることである。
さらに、辛い苦しいといわれた軍隊に志願までせしめた原因として、次のようなことも考えられていきました。つまり軍隊では都会人もインテリも労働者も、また農民もまったく平等な扱いであったこと、そして軍隊以外の社会で農民を対等に扱ってくれた社会があったかどうかということでした。一応士農工商などといわれながらも、その生活の貧しさ故に、常日頃〝どん百姓〟視され、不当な扱いを受けてきた農民、ところがここ軍隊だけは一切の私物を廃し、平等な官給品が与えられ、平等な扱いが待ち受けていた。しかもそれが知的な活動よりも肉体がものをいう場においてであった。(略)農民はここでは日頃の劣等感を払拭できたばかりでなく、その頑健な体、生活力の強さゆえに、むしろ優越感をさえ持ち得たのではなかったろうか。しかもそれが官民意識の強いわが国において、容易には〝官〟側に席を置き得なかった農民にとって、その〝官〟以上の権威を持つ〝軍〟においてである。〈皇軍の一員としてその光栄に感泣〉という言葉、それは単なる慣用句に過ぎなかったのであろうか。
彼らの自意識へと想像をはたらかせるなら、「農民兵士」をたんに哀れな存在であったとみなすのは早計であろう。もっとも、ここで指摘されているようにこのような自意識の発生は、彼らを「どん百姓」と見なすようなまなざしを前提としたものでもあった(抜き差しならない状況においてはたらくこうした力学は「農民兵士」の場合のみに見られるものではあるまい。たとえば日本の占領下にあった台湾において、先住民族である高砂族の少なからぬ数の者が日本軍に入隊し「日本人」として戦うことを希望したのは、差別的なまなざしを受けるこれまでの状況からの逆転を意識した故のものでもあったろう)。とすれば、たとえば松下の記した次の言葉をたんなるきまり文句のなぞりであるとのみ考えてしまうような読みは、松下を戦争の犠牲者とみなしつつも、彼のおかれた状況の根本的な部分にまではついに目が届かないものであるように思われる。
殊に其の許は今最も肝心の発育盛り、体を鍛え、精神を練るには今をおいてはありません。他日悔を残さぬよう十分心掛けて、身体の鍛錬、精神の修養を切望します。国家未曾有の時局下の青年は、健康な体躯と頑健な日本精神を把握しなければなりません。切に練磨を望みます。今日は天長の佳節、父は新領土の一角より遙かに聖寿の万歳、竹の園生の弥栄を祈りました。新領土の新しい民草も今日は休業、軒毎に日章旗をたて、所々に美しいアーチをたて、小学生たちは手に手に日の丸をかざして愛国行進曲を高らかに練り歩きました。全く私たちは感激の涙に咽びました。それと共に将来の我々の任務責任も又重いです。すべては皇国の為にです。お互いに励みましょう。(長男・文雄宛 一九四二・四・二九着)
僕は、これが松下の本心として書かれたものであったかもしれないという可能性を拭いきれないし、また、そのように読まざるをえないことにこそ、彼のおかれていた状況の根本的な問題をまなざす手がかりがあるように思う。この文面からは、いわば、その身を「置かれていた」軍隊という場を、むしろその身を「置く」場として意識していた松下の自意識のありようが見えてはこないだろうか。実際、ここに見られる息子の心身の発育への気遣いは、「農民」ではなく「軍属」として「皇国の為」の「重い」「任務責任」を果たそうと励む自らの姿への誇りの裏返しではなかったか。
さて、改めて表題句に話を戻すと、先にふれたように、この句は手紙の文面のなかに記されたものである。その全文は次の通りである。
お前よりの便りが暫らく途切れているので或は体に異状でもありはせぬかと案じている。あまり健康でないお前の体故大切にしてくれ。父上や、子供よろしくたのむ。俺は至って元気だ。決して心配するな。左に近影を記す。
〇「身はたとえ南浜の地に果つるともわがまごころを君にささげむ」
〇「かえらざることのありともなど悔いんわれもやまとのますらをもののふ」(留守家庭を守るお前達に感謝しつつ)
〇「うぶすなに家守る人の幸いのり幾とせか桜紅葉もなかりけ里」(一ヵ月もすれば桜、氏神様の桜を偲びて)
〇「空襲の空のお星もゆれて居り」(天地も振動する爆弾)
〇「下駄穿いて屁ぴり腰のパプアさん」(裸でハダシの現地人の生れて初めてはいた下駄その恰好のおかしさ)
ここに記された歌は、とくに「身はたとえ」「かえらざる」の二首についていえば、それこそ滅私奉公、尽忠報国的な、いわばきまり文句的なフレーズで構成された兵士の歌である。真ん中の歌は五七五五七五という韻になっているが、これは松下が短歌や俳句という詩形式を五音と七音によって構成される詩であると認識していたこと、また、あとの二句を含めて考えるならば、短歌は五音と七音によって構成されるやや長い詩で、かつ真面目な内容をうたうものであるという認識があったように思われるのに対し、俳句(そもそもこれらを「俳句」と考えているかどうかもあやしいが)の場合は相対的に短く、かつ滑稽な内容をうたいうる形式であると認識していたらしいことをうかがわせる。
この手紙の書かれた二句についてもう少し考えてみたい。本書には松下からの手紙が何通か掲載されているが、そのなかに上掲の手紙の少し前に書かれた次のような手紙がある。
三、四日前に便りを出したばかりだが、また出したくなって書きます。皆変わりないだろうね。自分は応召以来未だ病気はしなかったが、現在いるところが有名な不健康地帯の為に、とうとうマラリヤに冒されたが、今はもうすっかりなおったから安心して下さい。マラリヤで休んでいる間に次のようなことを自分は決心した。あなたにも協力してもらい、父上のお力添えを得、子供たちの一致の努力を切望したいと思う。これは決して空想ではない。自分が無事帰還できたら是非実行する。もし万一一生帰還できない場合は皆でやって下さい。
一、家庭内から(怒り)を追放し、日々を笑って家内一同和合する
(略)
右の様な事を考え是非やりとげたいと思う。そして家内揃って楽しく笑って暮らそうよ。(妻・きさの宛 一九四三・七・二〇着)
思うに、先の句は苦しい状況にあっても心のゆとりを忘れないことを命じた家長としての松下の精一杯の表現行為であったろう。松下がこの手紙の数ヶ月後に「空襲」によって亡くなったことを思えば、僕にはこの句の「空襲」の表現は空疎なものであるとはとても思われないし、このように表現すること自体、精神的にも肉体的にも容易なことではなかったような気がするのである。