田中屋千穂(樋田千穂)『新橋生活四十年』(学風書院、一九五六)の一句。著者は新橋にあった待合「田中屋」の女将である。千穂にはほかにも『女将 千穂自伝』(要書房、一九五二)、『草もみぢ』(生活百科刊行会、一九五四)といった著作がある。政界、財界、芸能界の著名人と交流のあった人であるだけに、たとえば『草もみぢ』は題字高浜虚子、装幀安井曾太郎、序文小宮豊隆、さらに阿部能成が出版元を選定するという豪華なものであった。小宮豊隆が原稿のほとんどに目を通したという本書もまた、序文を林房雄が執筆し小倉遊亀が装幀を行っている。千穂は一八七八年に大阪弁護士会会長であった樋田保熈と北新地の芸者お國(佐藤くに)との間に生まれ、樋田家の娘として育てられた。林房雄は千穂の来し方を次のように書いている。
明治初年の大阪弁護士会々長と北の新地の名妓の間に生れ、父の倒産によつて裏長屋住ひの苦しい少女時代を送り、望まれて銀行家の若妻となり、良人に死別して、遺児を抱いて芸者となり、伊藤博文の寵をうけ、また高峰譲吉博士の愛人にもなつたが、やがて芸者稼業をきらつて再婚し、良人に裏切られて身一つでとび出し、旅館を経営してどうやら芽を出しかけたとき、大震災にあつて元も子もなくなつたが、決して挫けることなく、ついに大田中家の女将になる…といふのが千穂さんの自伝物語のあらましだが、(以下略)
このように波乱万丈の人生を送ってきた千穂だが、「私の本当ののぞみは、どうかして小説家になりたい、といつてはあまりに図々しいかも知れないが、自分の本当の希望としてはさういふことをやつてみたかつたのでした」というように、文学への憧れを生涯抱き続けてもいた。実際、萬朝報の懸賞小説に入選したこともあったが、千穂は折にふれて短歌も詠んでいる。だがおもしろいのは、千穂が自らの文学への志を次のようにも記していることである。
芸に精を出す一方には、私は何か一風変つた芸者として立ちたい、という野心がありました。そこで、自分のもともと好きな文学をやつたのです。このためには、大分人からいろいろ言はれました。歌なんか作つて生意気だとか、なんとかかんとかひどく言はれましたけれども、自分としては、芸をやると共に文学もやりたいと思つて、人に何とか言はれやうが自分の道に進んだからこそ、まあいはば高位高官の方にも、認めて貰へることになつたのでせうと思つてゐます。
これをどこまで本音とすべきかは難しいところだが、銀行家の妻から芸者へと転向したこと、「乳呑児を抱へて、働かうにも働きに出ることも出来ない」状態で思い悩んだあげく自殺を思いとどまった後での決断であったこと、芸者稼業を始めるには決して若くはない年齢であったこと、姉や妹がすでに芸者として評判をとっていたことなどを考えあわせると、なんとかして自らを売り出していきたいという千穂の思いが、いわば資本としての「文学」を見出したのではないかと思われる。
千穂は小説では樋口一葉、短歌では与謝野晶子や九條武子に心酔していたが、林がいうところの「良人に裏切られて身一つでとび出し」た直後―すなわち和田助一との離婚後に料理屋と旅館を兼ねた商売をしていた妹の家に身を寄せていたころ、二人がたまたま来店するということもあったという。また、この二人の他に「大好きな方」として千穂が挙げているのが正岡子規であった。
くれなゐの二尺伸びたるばらの芽の針やはらかに春の雨降る(明治三十三年)
侘しさにかくれて月の見えざるをひと目を見むといざれども見えず
松の葉の葉先を細み置く露の溜りもあえず白玉散るも
子規を一生懸命に渇仰して、子規のものは残らず集めて読んでゐた時分に、日記に書きとめておいた歌です。子規の病気がはかばかしくないと噂に聞いて、私はなんとかして病気のお見舞に行きたいものだと、真剣に考へたものでした。
千穂は一八七八年生まれであるから、考えてみれば与謝野晶子と同年の生まれなのである。晶子の歌がそうであったように、樋口一葉も正岡子規も千穂にとっては自らと同じ時代を生きる人間の作品であった。とりわけ、生活が困難を極めていた十代の頃一家で駄菓子屋を営んでいた経験を持つ千穂に、一葉の姿が自らのそれと重なったであろうことは想像に難くない。
さて、このように文学に関心を持っていた千穂だが、俳句に手を染めたのはずっと後のことである。自身が本書で「俳句を作り始めてからは十四、五年になりませうか」と書いているから、本書上梓の十四、五年前、すなわち一九四〇年代初めと見ていいだろう。とすればすでに六〇代に入ってからということになる。子規に傾倒していたにもかかわらず数十年もの間俳句を詠むことがなかったというのは一見奇妙なことのようでもあるが、しかし、明治生まれの女性としては自然なことだったろう。まして千穂の場合、女性俳人の草分けである長谷川かな女や竹下しづの女でさえ十歳近く年下になるのである。若き日の千穂は俳句を詠む女性がきわめて特異な存在としてあった時代に生きていたのだ。
千穂が俳句を始めたきっかけは虚子との出会いにあった。
田中家を継いでから河東碧梧桐さんや高浜虚子先生などの俳人が見えるやうになりました。碧梧桐さんはちよつとキザなところがある方なので、私は、「先生は嫌ひですよ」といひますと「さう真正面からヅケヅケいふな」と困つた顔をしてゐました。虚子先生は最初からご立派な方で、そのお徳をおしたひして、のちに門弟の末席に加えて頂くやうになりました。
田中屋を継いだのは関東大震災の後のことだから、時代的には碧梧桐が『三昧』を創刊し自らの作品に「短詩」と銘うって発表するなど独自路線を突き進んでいた時期であり、一方虚子は丸ビル内にホトトギス発行所を構え俳壇を席巻しつつあった時期にあたる。上掲の一文はこの時期の二人の人柄をとらえた記述としても興味深い。千穂は俳句だけでなく虚子の自宅で毎月行われていた文章会に出席し富安風生や佐藤漾人らと批評をしあってもいた。『ホトトギス』には千穂の文章が掲載されているが、それにはこのような経緯があったのである。
千穂と虚子との交流はまた、思わぬ人物を虚子へと結びつけることにもなった。千穂の姉神崎恵舞は地唄舞の一流派である神崎流の創設者であったが、この姉のもとに若柳敏三郎という弟子がいた。入門時には二四、五歳であったという。敏三郎はすでに若柳吉蔵に師事し、医学博士である父が麹町に建てた家に弟子と女中とを置いて稽古を始めていたが、新たに地唄舞をやりたいと恵舞のもとへやってきたのである。敏三郎は才能もあり大変に熱心でもあったことから、恵舞や千穂をはじめ周囲から期待される存在へとなっていった。だが芸に対する行き詰まりを感じ始め、ついには神経衰弱に陥り、二八歳で亡くなってしまう。亡くなった時代ははっきりしないが「その頃は召集令が来て兵隊にとられて行くといふ時代でした」とも書いているから、戦時中のことだったのだろう。わずか数年で彗星のように現れ去っていった敏三郎であったが、彼が「非常に崇拝」していたのが虚子であった。
敏三郎は、高浜虚子先生を非常に崇拝して、先生に一度お目にかからしてほしいといふので、ある時、先生の句会が私の家にあつた時知らせましたら、お稽古をうつちやらかして飛んで来ました。先生にご紹介すると、彼はもぢもぢしながらまるで女のやうに尻込みして、先生のお顔もろくに見ずに、「私は敏三郎でございます、先生のお作を、いつか自分の発表会で、恥づかしながらやらして頂きました。この次にも是非先生のお作で何かやらしていただきたいと存じます」といつて、全く固くなつてしまつてゐる。(略)先生が、「敏三郎君、こちらの方へ出ていらつしやい。あんたも勉強して俳句でも読むんですね」とおつしやると、「ハッ、ハッ、先達、伊香保でこんな拙い句を読(ママ)みました。」
外は雨宿静かなれど舞ひ出来ず
霧深く小寒きほどや榛名道
山もはや秋に入りたるたたずまひ
聞きもらすほととぎすとや里の子が
とやつとの思ひで言ひますと、後の二句だけはどうやら句になつてゐるといつて、丸をつけて下さいました。敏三郎は大喜びで、鬼の首でも取つたやうに再三再四ピヨコピヨコ頭を下げて帰つて行くのでした。
「後の二句だけはどうやら句になつてゐる」という虚子の評について、これを虚子の俳句論や選句の傾向などを参照しながら論じていくこともあるいは可能であろう。けれど、僕の興味はそこにはない。かといって、敏三郎のこの四句の表現について何かひきつけられるわけでもない。むしろ、自分の目の前で「全く固くなつてしまつてゐる」一人の青年の拙い句を虚子がまがりなりにも肯定したということ、そしてその虚子の評を敏三郎が無闇に喜んだということにひどく心ひかれるのである。
たとえば「霧深く小寒きほどや榛名道」「山もはや秋に入りたるたたずまひ」の二つを比べて、どちらが良いとか悪いとかということには、そもそもどういう意味があるのだろう。もちろん、両者のいずれかを良しとする場合の審美眼の拠り所について思考し、ひいては自らの審美眼のありように自覚的であろうとすることは大切なことだ。でも僕は、たとえばあのとき虚子が「後の二句」ではなく「前の二句」を指して「どうやら句になつてゐる」と言ったとしたら、敏三郎はどう思っただろうかと想像してしまうのだ。そして僕は、「前の二句」であろうと「後の二句」であろうと、やっぱり喜んだにちがいないとも思うのである。これは敏三郎に対する侮辱ではない。もしこれが侮辱だというなら、そもそも「山もはや」「聞きもらす」の句を「どうやら句になつてゐる」などという言葉でお茶を濁すように評した虚子の行為のほうが侮辱的ではないのか―しかし僕はここでそんなことを問題にしたいのではない。僕にとって興味深いのは、ある句が表現として優れているとかいないとかいうことが、俳句に携わる者にとってさほど重要でない局面がたしかに存在するらしいという気配がこの二人のやりとりからうかがわれるということだ。
敏三郎の死後、千穂の家で敏三郎の踊った衣装を掛けて追悼句会が行われた。虚子や星野立子、中村汀女ら『ホトトギス』の同人たちが参加したが、そのとき虚子は「素袷の心になり得ざりしか」と詠んだ。千穂はこの追悼句会について記すなかで、最後に次のように述べている。
彼の衣裳を飾つて追悼の会を催し、虚子先生はじめ、皆さんから句を頂いたといふことは、哀れな生涯ではありましたが、光栄なことであつたと思ひます。
ここで千穂が句そのものについてあれこれと書いていないのは弟子としての慎みのあらわれでもあろうが、一方で、「句を頂いたといふこと」をもって彼岸の敏三郎への思いへと筆を進めているのは、この場合の千穂もまた、句をやりとりするということそのものに価値を見出していたからではなかったか。