池松武之亮『いびき博士』(現代社、一九五七)の一句。本書はいびきの研究で知られる池松の随筆である。いま手元にあるのは第四版で日付は一九五七年三月二〇日となっている。初版は同年の二月二〇日であるから、わずか一ヶ月で第四版まで版を重ねていたことになる。当時はまだあまり知られていなかったいびきの治療法や原因などについて一般向けに易しく説いた本書には、それだけ多くの需要があったということであろうか。なお現在は千葉県柏市に池松武之亮記念クリニック、野田市にいびき研究所・資料館があり、娘の池松亮子が父の跡を継いでいるようである。
本書の序文を徳川夢声、跋文を平野威馬雄が記しているあたりは池松の交友関係の広さをうかがわせるが、夢声は序文で「俳句の方で面識があ」るといい、句会で知り合いになった平野もまた「池松さんは、俳人だから」云々といっているように、池松は禾川という俳号を持ち俳句を嗜んでいたのである。巻末の「著者小伝」によれば、大分県立竹田中学校を卒業してから三年後の一九三三年、上京した竹田は東京高等無線電信学校に通学するかたわら、昼は松根東洋城の渋柿社に勤務していたという。この頃の渋柿社の給料は月二五円で、これに家庭教師で得た月一五円を足して学費や生活費を賄っていたというのであるから、生活は苦しかったはずである。学校はわずか三ヶ月でやめてしまった池松だが、渋柿社の方は大邱医専受験のために辞するまで約二年間勤めている。この時代を振り返って池松は次のようにいう。
この渋柿社時代に俳句の一端を知る。その間社用で寺田寅彦、夏目純吉、久保田万太郎、上田万年、鈴木三重吉氏などの馨(ママ)咳に接す。渋柿句集の編纂にあずかる。俳誌「あらの」が発刊、同人となる。
その後、野田市で池松耳鼻咽喉科を開業したが、俳誌「花」の同人になったり、脚本を書いたりもしている。いびきの研究を始めたのは一九五三年。その二年後に毎日新聞にいびき研究家としてとりあげられて以降、「いびき博士」としてラジオや新聞雑誌などに登場するようになったようである。本書もまた、こうした池松の知名度の上昇がもたらしたもののひとつであったろう。
池松は「鼾盗り」と称してさまざまないびきを録音しコレクションしていたが、面白いのはいびきをその音響によって分類しているところである。すなわち「猛獣型」「ナイアガラ型」「シャボン遊び型」「風鈴型」「鈴虫型」「松籟型」「雨だれ型」「ふいご型」「蛙鳴型」「バラ弾型」「爆音型」「鉄工場型」「渓流型」「鏑矢型」「虎呼笛型」「雑響型」「読経型」などである。また、著名人にいびきに関するアンケートを行っており、各回答者が自らのいびきを次のように名付けている。一例を挙げれば「雷の如し」(源氏鶏太)、「豚の啼声に似た趣ある由」(津久井竜雄)、「はるさめ型」(川上三太郎)、「ウワバミの異名あり」(前田雀郎)、風流なのは林家正蔵の「篠竹の風に振れ合う程度」だが、徳川夢声の「もりそば型」というのはなんだかおかしい。
本書ではいびきの詠みこまれた俳句も紹介されている。
蝮の鼾も合歓の葉蔭哉 蕪村
明方の蚊帳はづせども鼾かな 子規
古蚊帳に長脛彦の鼾哉 鶯池
将軍の樹下に昼寝の鼾かな 愚仏
長き夜や猿の鼾と鶴の夢 霊子
俳句においては蝮や猿もいびきをかくものらしい。
池松はいびきの都々逸もつくっている。
出そうな顔だと昼見ちやいたが事後のいびきが夜を通す
花嫁ごりようと呼ばれた身だが今ぢや猛獣国電いびき
いびきの研究などというとどこか滑稽な趣があるが、池松がいびきに関心を持つきっかけとなったのは、いびきを理由にたった一日の結婚生活のみで離婚されたある女性がその母とともに来院したことであった。
その時、その連れられたお嬢さんは、しくしくと咽び出したのである。
「そんな馬鹿な……、いびきで泣くとは……」
と言ったものの、現実の出来事には一応考えざるを得なかった。いびきとは一つの生理的現象で、楽しくユーモラスで、しかも腹立たしくて憎めないもの……などと、等閑に付していたが、こうなるともはや笑い話ではすまされない。(略)
第二次大戦中、一人猛烈ないびきをかく兵隊がいたので、その兵隊が全滅の憂目を見たという実話まである。いびきをかくために日帰りの旅行なら出掛けるが、一泊旅行は遠慮するとか、当直が免除になるとか、離婚の原因にされるとか、一寸聞きには、むしろユーモラスでさえあるいびきばなしも、本人にとっては何とも頭痛の種で悲劇のヒロインをもって自認せねばならない話が多い。
本書にはいびきのために悩む患者が何人も登場する。なかには息子のいびきがひどくて修学旅行にやれない母親とか、寮生活をしているがいびきがひどいので周囲から責められ幾度か死を考えたという二二歳のタイピストとか、肺病による十数年の闘病生活が終わり結婚することになったもののいびきをかくようになって悩んでいる三〇歳の女性など、冗談のようだが本人はかなり深刻に悩んでいるケースがある。決して「花嫁ごりようと呼ばれた身だが今ぢや猛獣国電いびき」などと、いびきと楽天的に付き合える者ばかりではなかったのである。池松はこうした悩みに対し医師として真摯に向き合うのだが、しかしその一方では、いびきへの愛着がうかがわれもする。上野本牧亭で行われた「いびきの会」はそれを象徴するものだろう。これは平野威馬雄らが浅草寺で著名人を呼んで行っている「浅草の会」が開催したもので、平野が司会を務め、第一部では添田知道による「すばらしき人間愛」なる講演や木村時子の「イビキ体験記」をはじめ、大島得郎の「イビキ小咄」などが披露された。「爆笑のうちに」終わった第一部に続く第二部では池松が登場し「いびき話」を行ったという。午後六時から四時間にわたって行われたいびきの会は盛況だったようだ。ここにはいびきへの潜在的な関心の高さのみならず、観客も池松もともにいびきを楽しもうとする姿勢がうかがわれる。
さて、表題句に話を移すと、これは「『いびき』奥の細道」と題する池松のいびき俳句のうちのひとつである。そのいくつかを以下に紹介してみる。
鼻を病む人、咽喉を病む人の病院なれば
病棟のいびきをそえる朧かな
しのび足にてドアの一つ、一つにたたずむ
いびき聞く影がおかしき春灯
ある時のこと、高梨花人氏と談笑するに、四季のいびきのけじめをたずねられたる時
春の夜の鼾は畳にだけ滲みる
九州に生まれしものの、世のさだめとは言い乍ら、利根のあたりに住みつきて木の葉の落つる音にも耳傾けてこそ、たのしけれ
醤油(むらさき)の町の冬夜を聞く鼾
いびきが当人の制御の行き届かない何ものかの謂であってみれば、いびきの響きわたる夜とは、何やら「いびき」なる魑魅魍魎の跋扈する奇妙な時間にも思えてくる。その時間はまた、自らの「鼾盗り」について良心の呵責を感じていた池松にとってみれば、どこか箍の外れた異様な時間でもあったろう。
いびきの収録は深夜の作業であるから、肉体的な苦労もさる事乍ら、今でも私を一番苦しめる者は前述したように、精神的なものである。医者であるとは言え(ママ)、一男性である私が一応前以て許しを得ているとはいえ、深夜、他人の寝室に忍び込むのである。文字通り、他人の熟睡を盗むのである。この時の気持は多分お分り願えると思うが、他人の恥部に触れるに似た犯罪意識を伴うのである。「良心の呵責」これには馴れはない。
いうまでもなく、いびきを聞くということは他者のそれを聞くことであって、逆にいえば、いびきを聞くということはいまだ起きている自らを確認する行為でもある。だから「畳にだけ滲みる」と詠んだとき、その「畳」には眠っている者と、起きている池松とがいたはずである。池松はそのいびきを春の夜の朦朧とした時空間へと放つのではなく、眠れる他者の身体と起きている自らの身体とを繋ぐ「畳」へと「滲み」こませていった。ここには、春の夜更けに「恥部」をさらしつつたったひとりで眠る者の孤独と、その「恥部」に触れながら起きている者の孤独とがある。そしてまた、そのようなのっぴきならない時空間のただなかにいる他者と自らとを慰撫するようなまなざしがうかがわれもするのである。