【83】噴くが見ゆ浅間時雨のとぎれては  田中美穂

田中美穂編『時雨集』(九萬字先生句碑建設会、一九三四)の一句。本書は島田九萬字の句碑「雲の往来の幾度か時雨返すなり」が長野市展望道路に建設される際に刊行された記念句集である。句碑建設に参画したのは約八百名。そのうちの一部の人々の句を「雲外抄」(賛助員近詠)、「時雨抄」(会員兼題)、「行雲抄」(発起人兼題)、「帰雲抄」(常任委員兼題)の四章に分けて掲載している。
本書の「島田九萬字小伝」によれば、島田九萬字は一八七六年に長野県下高井郡日野村に生まれた。長野市新田町の印刻店主人千曲堂左淵に俳句を学び、その後一九〇五年頃『ホトトギス』に、その後『日本及日本人』や戸澤撲天鵬の『蝸牛』に投句した。一九〇八年には田中美穂と『葉月』を創刊している。

四十二年「葉月」を拝観し、「ウロコ」を創刊。此の頃碧梧桐氏の新傾向に共鳴する処最も多く、ウロコの色彩亦これに同ずるものありしも、後新傾向の行く処漸く軌を逸するに及びウロコを廃刊す。大正四年大須賀乙字、臼田亜浪氏等「石楠」を創刊し、純正俳句を唱導するや直ちにこれに参じて同人。一方これと呼応し、美穂氏と共に「山」を創刊してこれを主宰。(前掲「島田九萬字小伝」)

その後「山」は一九二三年に廃刊。一九三〇年に『九萬字句集』(九萬字句集刊行会)を上梓し、同年丸山文字らの創刊した『蕎麦の花』に参画した。本書巻頭を飾る「雲外抄」のが臼田亜浪の句「遠つ祖ふみませる草にして穂を」から始まるのは、同郷の臼田亜浪の志向する俳句への強い共感があったためだろう。

「石楠」の俳句理念は創刊号および「石楠」第一句集『炬火』(大正六年)に見ることができる。そこでは、俳句を「純正なる我が民族詩」と呼び、「自然の象徴たる季語と十七音の詩形」を肯定し、「頑陋なる因襲的思想」を排斥することが主張されている。純正な民族詩という規定は、乙字と亜浪に共通する国粋的、復古的な精神構造の現われである。(川名大『現代俳句』下巻、筑摩書房、二〇〇一)

さて、この「雲外抄」を繙くと、今やその俳句のあまり語られることの少なくなってしまった作家の名が散見される。

大空の月動かざる花火かな              小泉迂外
芙蓉咲くや庭は日癖の雨ながら            武田鶯塘
須磨の恋烏帽子に蓑に時雨れけり           岡本綺堂
尾花沢に清風のあとを尋ねて
床掛けの翁の像も涼しけれ              名和三幹竹
旅寓
戸明くれば月光恵那へしりぞきぬ           勝峯晋風
花火あがるいとまを潮のよせかへす          小田島十黄
  九萬字詞宗の句集世に広ごるをことほぎて
秋霽や大鵬わたる九萬里               伊藤松宇
草草日に照りまれには鳥の飛び            岡本癖三酔

『時雨集』の刊行された一九三四年といえば、前々年に「頭の中で白い夏野となつてゐる」(高屋窓秋)が、前年に「自然の真と文芸上の真」(水原秋桜子)が発表された年である。「雲外抄」に名を並べた作家たちは当時の俳壇にあってむろんそれぞれ一家をなしていたのだが、一方で新興俳句や人間探求派といった名で呼ばれることになる新しい作家たちが生まれつつあったこの頃にあって、彼らの作家としての展開力は時代の風と切り結ぶことのない場所で発揮されていたというべきであろう。だが、むしろその場所にとどまるということにこそ、彼らの作家としての矜持があったようにも思われるのである。実際、日野草城の「ミヤコ・ホテル」の発表された時代に「須磨の恋烏帽子に蓑に時雨れけり」と詠ってみせたのは、そのような彼らの矜持のなせる業であったろう。
また少し視点を変えれば、九萬字がこうした句によって祝福されたことはその作家としての立ち位置を示唆するものであるようにも思われる。すなわち、初学のころ新傾向俳句のさまざまな試行に接しながらやがて『石楠』に自らの求める俳句を見出した九萬字とは、いわば新興俳句も大正主観派も登場する前の俳句表現史の時空に青年の日を過ごした者の一人であったのである。俳句を志した若き九萬字の視野にあったのは明治期の新派の俳人であり、子規没後に新傾向俳句の旗手となった碧梧桐であり、後には乙字であり亜浪であった。だが『時雨集』の刊行された当時、乙字は亜浪と袂を分かったのち泉下の客となり、碧梧桐は俳壇からの引退を表明していた。

顧みますれば俳句生活四十年に垂んとは致しましても碌々の才を以て俳壇に貢献のすべもなく、又作家としても絶唱を遺し得たでもなく、唯駑勉孜々として大方の諸氏と交遊し得たにすぎなかつたのであります。(略)
想へば物故された先輩同信も数々ある中にひとりこのやうな恩賚を得、このやうな殊遇、このやうな盛儀に与るのは、全く身にあまる至幸、家にすぎたる至栄であります。(島田九萬字「謝辞」『時雨集』)

『時雨集』には本来ならばその名と句とを連ねているはずの数々の「先輩同信」があったろう。「作家としても絶唱を遺し得たでもな」い九萬字にとって、その欠如は無念と羞恥とをもたらしたにちがいない。しかしながら、まもなく還暦を迎えようという九萬字の「俳句生活四十年」とは、彼らの没後の月日をも含みこんだ生涯の謂であって、そうであればこそ「絶唱を遺し得たでもな」い九萬字にとって切実なものであったと思われるのである。
さて、本書の最後を飾るのは「帰雲抄」であるが、ここには句碑建設会の常任委員九名と九萬字の句が並んでいる。常任委員の一人である田中美穂は九萬字と『葉月』『山』を創刊した人物であり、句碑建設会の代表も務めた、いわば九萬字に最も近しい俳人であった。その田中は次の句を寄せている。

噴くが見ゆ浅間時雨のとぎれては

浅間といえば亜浪も「ふるさと!/ふるさとは懐かしい。/ふるさとのうからやから!/ふるさとの山浅間!/ふるさとの川千曲!/ふるさとは懐かしい」と記したように(「ふるさと」『石楠』一九三四・八)、長野に生まれ育った彼らにとって親しみ深い山であった。「時雨のとぎれては」と詠ったのは、句碑となった「雲の往来の幾度か時雨返すなり」を意識してのことであったろう。時雨をもたらす「雲の往来」を詠った九萬字に対し、田中がその時雨の合間に「噴く」浅間を詠ったことで信州の大きな景が見えてくる。亜浪にも「浅間ゆ富士へ春暁の流れ雲」があるが、これは浅間の神が富士山へ、富士の神が浅間へ通うという雲の橋の伝説と現実の景とを二重映しにして詠んだものであった。この伝説はともかくとして、浅間にかかる雲をしばしば見ていたであろう田中にとって「雲の往来」から浅間を連想するのはそれほど難しいことではなかっただろう。だが田中がこの連想を自らに許したのは、何より、この句が他ならぬ同郷人の九萬字に捧げられたものであったからだろう。すなわち、九萬字も自分と同じ浅間や雲を見ているのだという信頼があったからこそ、田中はこの句を詠みえたのではなかろうか。この句はいわば多年苦楽をともにしてきた九萬字に対する同郷人としての友情の一句であったように思われる。