『銀座百点』(銀座百店会、一九八一・四)の一句。『銀座百点』は銀座の各店舗で配布されているタウン誌である。創刊は一九五五年一月。二〇〇四年当時編集長だった斎藤美子はインタビューのなかで同誌の創刊について次のように語っている。
当時は新宿や渋谷などの新しい盛り場の台頭により銀座斜陽論の言われた時代だったらしいんです。それで、銀座から何か文化発信をしようということで老舗のご主人たちが銀座百店会を組織した。その頃は、銀座に文藝春秋新社がありまして、当時の文藝春秋新社社長の佐佐木茂索さんと車谷弘さんのご協力を得て創刊しました。当時から「文藝春秋」の後ろ楯のおかげで、たいそう豪華な執筆陣にご登場いただくことができたわけです。(斉藤美子「『銀座百点』五十年。」『東京人』二〇〇四・一一)
雑誌の命名は文芸春秋新社のベテラン編集者だった車谷弘によるものであった。斉藤のいうように久保田万太郎、永井龍男、戸板康二、吉行淳之介、向田邦子など、一タウン誌とは考えられないほど豪華な顔ぶれが並んでいるのが同誌の何よりの特徴であろう。俳人では創刊号にエッセイを寄せた中村汀女の登場が最も早いものであるが、汀女は創刊時から数年間同誌にさまざまなかたちで登場しており、汀女の社会的イメージを考えるうえでも興味深いものがある。なお、創刊した一九五五年の六月には汀女と七代目尾上梅幸の対談、翌七月号に高濱虚子と武原はんの対談が掲載されている。その後の俳句関係の記事としては、やはり汀女を中心として一九五四年前後から開催されていた句会の様子を取材した「文壇婦人俳句会の記」(江原通子、一九五六・一)があるが、創刊から一年余りが経った一九五六年三月号の末尾には俳句募集の記事を見ることができる。
「銀座百点」誌上に、銀座俳句欄をもうけます。ふるつて御応募下さい。
規定 官製ハガキ一枚に一句のこと。何枚御投稿下すつても結構です。題材は銀座に関係あるもの。締め切りは毎月末日。発表は五月号から。(以下略)
選者 中村汀女先生
これこそ、現在まで続く投句欄「銀座俳句」の幕開けを告げるものであった。そしてこの募集記事にあるように一九五六年五月号に「銀座俳句」第一回が掲載されている。入選句は次の三句である。
ソーダ水銀座百点読みながら 東京 加藤久子
巣燕に銀座はなやか昼灯す 日本橋 小山亜石
夕東風やネオンはすでに七彩に 京橋 岩崎其鯛
第一回ではこの他に佳作として十二句が掲載された。汀女は一九五八年九月まで選者を務め、その後永井龍男、五所平之助、龍岡晋と続き、現在は高橋睦郎が担当している。汀女が選者であった最初期の「銀座俳句」は、先の三句のように「題材は銀座に関係あるもの」という規定を守ったものが多く見られた。その路線が変更されたのは二代目の永井龍男の選者時代のことである。永井は「銀座俳句」初登場時の講評の最後に「なお『銀座俳句』は、『都会風な』というほどの意味に解したい。銀座という土地に特に、こだわる必要はないと思う」と書き添えている。これによって「銀座俳句」の間口はそれまでよりも広いものとなった。
表題句は五所平之助が選者を務めていたころの「銀座俳句」に佳作として掲載された句である。谷内六郎といえば『週刊新潮』の表紙絵を担当してきた人物として知られている。かつては『週刊新潮』のテレビCMもあったから、ある年代以上の人にとっては谷内の絵は広く知られたものであったろう。谷内は一九八一年一月に亡くなっており、おそらくこの句は谷内の追悼句として詠まれたものであると思われる。この句が「銀座俳句」に掲載されたことは、「銀座俳句」という場においては作者・選者・読者がともに「谷内六郎」の名と仕事とを知っているはずであるという期待を―さらにいえば「ロクロウ」と呼びかけてしまう程度の親しさをもって「谷内六郎」をまなざしていたはずだという期待を―共有していたことを示唆していよう。
さて、この句の表現内容についてもう少し考えてみたい。これは「谷内六郎の万の星空/野バラの芽」と切るべきなのだろうが、「万の星空」とは何だろう。あるいは「万の星空」を描いた作品があることをふまえてのオマージュなのかもしれないが、はっきりしない。ただ谷内には夜空を描いた作品が多くあるし、童心の画家とも言うべき谷内であれば、「谷内六郎の万の星空」とは谷内の作品群の形容としてふさわしいものであろう。
谷内は絵だけではなく詩や文章も遺しているが、そのなかに「夏の夜空」と題した詩がある。
青い夜空はサイダーのびん
シュッ シュッ 夜汽車がセンをぬき
青い夜空に ほーらね
泡の星くず
青い夜空はサイダーのびん
トプトプ 天の神さまが飲みほすと
夜明けの空は ほーらね
白い空きびん
これは一九六二年にビクターから発売されたレコード「遠い日の歌―こども風土記」に収録されている。谷内の詩に中村八大が曲をつけフランク永井や中尾ミエが歌ったこのレコードは第一七回芸術祭奨励賞を受賞した。谷内の本職は絵の仕事にあったが、この詩とよく似た絵に「ポンポン夜明のセンをぬく」がある。これは『週刊新潮』一九六六年七月九日号の表紙絵として制作された作品である。小学生くらいの姉弟が海辺に立ち、画面奥の海を眺めている。沖には右から左へと横切るように走る白い船が描かれている。船はいくつものまるい煙を吐いているが、よく見るとサイダー壜の栓のかたちをしている。その煙を辿ると夜明けの空に浮かぶ船の黒い影と繋がっていて、その影には本物の船にはないはずの大きな栓抜きの影が付け加えられている。夜明けの海を横ぎる白い船と「夜明のセンをぬく」ようにして空を駆けぬける黒い船の影が二重写しになった不思議な一枚だ。橋本治はこうした谷内の絵について次のようにいう。
谷内六郎には、「現実」と「幻想」の境目がない。たとえば、1973年12月20日号の表紙《こがらしのパレード》である。鼓笛隊になった木枯らしが粉雪のチラシをまいている。私は、これを「メルヘンだ」とは思わずに、「そういうもんだ」と思ってしまう。私ももしかしたらちょっと変わった人間なのかもしれないが、谷内六郎の描く絵の表情がまた、「そういうもんでしょ?」と言っているからである。「鼓笛隊の木枯らしが粉雪のチラシをまく」という発想に、いささかの無理もなく、自然な発想が自然のまま絵になっているから、「そういうもんだ」と思うしかないのである。そして、そう思ってしまうと、この絵は「冬の訪れ」をメルヘンタッチで表現したものではなくなってしまう。「冬にはこういう景色もありがちだ」と思われてしまう。それは彼の絵が比喩でも寓意でもなく、ただそのまま、「そういうもんだ」を描いてしまっているからだろう。(「橋本治が選ぶ『週刊新潮』表紙絵ベスト10」『芸術新潮』二〇〇一・五)
谷内には「霧のミルクも来てた」(一九七〇年四月一一日号表紙絵)という作品もある。これは、パジャマ姿の少年がドアを開けると牛乳瓶が届いていた、という朝の一コマを描いたものだ。画面いっぱいに大きく描かれた半透明の牛乳瓶は圧倒的な存在感をもっているが、それが朝霧をミルクに喩えたものだという賢しらを微塵も感じさせないのは、これが「比喩でも寓意でもなく」谷内の見ていた景色をそのままに描いたものだからであろう。
ところで、高屋窓秋を知る人ならこの絵が窓秋の「白い靄に朝のミルクを売りにくる」と似ていることに気づくのではないだろうか。この句は『馬酔木』(一九三二・七)に載った連作「白」のなかの一句である。
我が思ふ白い青空と落葉ふる
頭の中で白い夏野となつてゐる
白い靄に朝のミルクを売りにくる
白い服で女が香水匂はせる
川名大は「『詩と試論』を中心とするモダニズムのコードであった『白』を連作のモチーフに据えて、その想念やイメージのヴァリエーションを追求した点が画期的だった」と評しているが(『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房、二〇一〇)、「頭の中で白い夏野となつてゐる」が示すように、この「白」は「頭の中」の「比喩でも寓意でもな」い。まさしく「そういうもん」として書ききるうえで要請された言葉であったろう。とすれば、接点などなかったはずの谷内と窓秋に類似した作品があるのはさほど不思議なことではないのである。
話を本題に戻そう。ようするに「ポンポン夜明のセンをぬく」とは、谷内においてそのように見えていた風景を描きとめたものであり、「夏の夜空」もまた「比喩でも寓意でもな」いものであろう。いわば「夏の夜空」の「青い夜空はサイダーのびん」とは決して「青い夜空はサイダーのびんのようだ」ではなく、まさしく「青い夜空はサイダーのびん」なのである。表題句の「谷内六郎の万の星空」とは、このように描き(書き)とめられたいくつもの「星空」を思わせる。それらはまさに「谷内六郎の星空」だが、しかしながらその「星空」が、一方では「そういうもん」としてこちらに投げ出されたものであってみれば、その「星空」は「僕らの星空」でもあるのだ。ましてや谷内を「ロクロウ」と呼ぶ作者にとって―さらには作者をとりまく「銀座俳句」の選者や読者にとっても―その「星空」は自らの「星空」であったろう。