【89】切株に粉雪かかる夢はあり  富田與士

 

富田與士『粉雪』(高原人会、昭和一八)の一句。
「高原人会」の住所は「長野県諏訪郡落合村富士見高原療養所内」となっているが、八ケ岳山麓の富士見高原療養所といえば堀辰雄の「風立ちぬ」の舞台として知られる療養所である。大正時代末に開設され結核患者の治療で知られたこの療養所には堀をはじめ多くの文化人が入院したが、富田もまたここに昭和一四年から一八年にかけて入院していたのである。富田についてはその病名を含めて詳らかでない部分が多い。ただ、入院以前の作品をまとめた「魚崎生活」の章に「肺弱き夫妻ひと日の夕櫻」という句があるから、やはり呼吸器系の疾患であったのだろうか。また富田の入院していた頃の入院料は、安い部屋でも一日二円ほどであったというから、その生活は決して貧しいものではなかったのだろう。
さて、本書は「魚崎生活」「昭和十四年」「昭和十五年」「昭和十六年」「昭和十七年」「昭和十八年」の六つの章で構成されている。「魚崎生活」には妻房子との神戸での婚約・新婚当時の生活に材をとった作品が並ぶ。

われらふたり緋の絨毯の階のぼる
冬濱の破船に妹の攀ぢんとす
雪降れり赤のブラウス脱ぐといふに

おそらく昭和十年代であろう、新婚生活を詠んだややモダンな印象の句が見られるが、そのなかに「妹胎す冬の金星たのもしき」「枯木星遂に現れざる吾子かな」とあるのは、その結婚生活が楽しいばかりではなかったらしいことを思わせる。このように、モダンな風物をとりこみながら自らの生活を感傷的に詠ってみせるところに富田の作風を見ることができそうだ。
入院初年を描いた「昭和十四年」は妻との別れから始まる。

  三宮駅にて
梅雨灯す電気時計の下に別る
  中央線
ぎらぎらと夏樹山間線のろし
郭公に妻はも遠き夕餉とる
  妻の手紙より
菊咲けば我家に他所の子が遊ぶ
結婚記念日午後は花野を歩み来し

結婚して間もなく妻と離れて一人入院生活を送ることになった富田だが、無念ながらも始まってしまった療養生活を詠った句が本書の大部分を占めている。その多くは失意と憂愁に彩られているが、それらが美しくも見えるのは、この句集に通底するナルシシズムが、それぞれの句において青春の香気を担保しているからではなかろうか。

青春期逝くか箸もて菓子食へば
燈寒し役立つことのなき語学
雨季去らず花火を揚げてゐる瘴舎
詩書潔し指もて弾くてんとう蟲
稲妻や遠き独りの湯に来たり
冬田道近づく人のここには来ず

ところで、本書を繙いていくと「昭和十七年」の章で次の三句につきあたる。

 雲人逝く
春の月白痴の如く野をのぼる
野辺送る一群と云ふ程ならず
春眩しわが絵も彼の遺品の中

「雲人」とは竹内雲人(本名・徹二)のことである。富田は雲人の死後自らが編集人となって句集『療園断片』をまとめ、自身の『粉雪』と同年に上梓している。『療園断片』の後記で富田が記すところによれば、竹内は療養所内の俳句サークルの指導的立場にあったらしい。富田よりも一年先んじて入所していた雲人が結核により亡くなったのは昭和一七年四月三日。わずか二八歳での死だった。おそらく同世代であったろう富田はその序文に「この句集は、高原人が亡き雲人に供える書である。/そして、それ以上に雲人からの高原人への贈り物である。」と記している。

蝉懈(たゆ)し激しく異性を欲り得ざる     竹内雲人
血を吐きぬ夏天かがやかにまさびしき
退院(かへ)りしが死にしときける日の昂ぶり
日だまりや才薄ければ癒ゆるべし
黍の上美ぐしき星を一つ撰ぶ 

『粉雪』にも『療円断片』にも入所者の死を詠んだ句が散見されるが、自他の死をすぐ間近に感じながら俳句を詠んでいた竹内や富田にあって、これはむしろ当然のことであろう。だが、ひたすら感傷的な富田の句を辿ってきた目には、竹内の句が底に秘めている明るさや前向きな意志は際立って見える。だが皮肉なことに、その竹内は亡くなり富田は生き残った。最終章「昭和十八年」には、退所した富田が新たな生活を始めるなかで詠んだ句が見られる。

大根の青葉や愛に縋りたし
足袋穿きつ悲哀は水の如くなり
ふと捨てしレモン一片雪を汚す

この前年、富田は妻と離婚している。この離婚は思いがけないものであったらしく、本書には「入院四年始(ママ)めて関西に帰る。思ひきや我家庭の破局に遭ふ」と前書した「埋火の火気手にあらば別るべし」もある。
竹内が「蝉懈し激しく異性を欲り得ざる」と詠っていたとき、「瞑れば妻よ眼開けば炎天」「妻恋し古枝破る牡丹の芽」と詠うことのできた当時の富田はまだしも幸せであったかもしれない。身体の回復したいまになって「愛に縋りたし」「悲哀は水の如くなり」と詠う富田だが、その一方では次のような句も残している。

切株に粉雪かかる夢はあり

句集名はおそらくこの句からとったものであろう。かつて竹内は「黍の上美ぐしき星を一つ撰ぶ」と詠った。「黍の上」の「美ぐしき星」を見上げる姿は、死のさし迫ったぎりぎりの状況のなかでそれでも生きようとする竹内の姿そのものであろう。他方、死のおそれをとりあえず回避することのできた富田はうつむいている。入院中もそうであったように、おそらくそれは生きるうえでほとんど変わることのない富田の姿勢なのだろう。感傷的でうつむきがちな富田のまなざしは、だから、「レモン一片」が生んだ路上の汚れを見つけてしまうような憂鬱さを導くこともある。この句の「粉雪」のかかった「切株」もまた、竹内の見つけた「黍の上」の「美ぐしき星」ほどには明るいものではあるまい。だが、うつむいた視線の先に明るいものなど見あたらなくとも、いま富田は「夢はあり」と言い切ってみせたのである。富田は「竹内雲人」にはなれない。しかし富田はこんなふうに詠いながら「富田與士」として立ち、生きのびていったのである。