【91】炭塵の息梅雨晴れの天へ吐く     松本靑志

安土利一・松本靑志『靑土』(麦出版部、昭和三二)の一句。
本書は川口さゞれ(松太郎)の尽力によって刊行された、安土と松本の遺句集である。安土ら三名はいずれも中島斌雄主宰の『麦』に拠って活動していた青年たちであった。安土が亡くなったのは昭和二八年、松本はさらに六年前の昭和二二年に亡くなっている。本書のうち、今回は松本の句をとりあげてみたい。
松本の死の直後、川口が中島宛に送った書簡が『麦』に掲載されたが、松本の死を悼んだこの記事の最後は次のような痛ましい嘆きで結ばれている。

鶏頭陣以来たゞ一筋に蕪子先生、大兄へと中心を求めてわき目もふらず、一時同君の才を見込んでホトトギス系俳人あたりからの誘いもありましたが相手にせず、ひたすら「麦」俳句のために精進をつゞけて来たのでした。小生への最後の手紙にも「麦」の来ないのを淋しがつて居りました。是から、是からだつたのです。同君のひらめく才能に磨きがかかつて「麦」の巻頭を争うのも近しと楽しんで居つたのでした。誠に惜しみても余りある俳人でした。同君のあの俳句に対する情熱が突然にして消えてしまつたとは……。ああ珠の如く美しい青年が死んだ、噫々(「松本靑志君を悼むの書」『麦』昭和二二・一二)

松本靑志(正夫)は大正一〇年に大阪市西区で生まれた。大阪市立日吉尋常高等小学校を卒業後、大阪市立大江商業学校夜間部に入学するが中退している。十代の松本は病弱の父に代わって家業の下駄作りをしながら苦学を続けていたのである。この頃すでに俳句を書き始めており、小野蕪子の『鶏頭陣』に投句していたが、川口とは奥山葉月が中心となって創刊した『鶏頭陣』の機関誌『新樹』の編集・発行をともに行うなどしていた。「鶏頭陣の関西における数少ない同志として、戦前から戦時にかけて真の兄弟の如く励まし合つて、それは猛烈な努力を共に傾けたものであつた」という川口の回想は、こうした時代を振り返ってのものである(「跋」『靑土』前掲書)。その後松本は昭和一七年に入営、一八年に内地を離れ南方を転戦したのち二一年に復員、やがて福岡県粕屋郡の三菱勝田炭鉱で働くようになったが、一年余りたったころ採炭中の事故で死亡した。二七歳での死だった。
松本の句を年代順に編んだこの句集を繙くと、まず次の句に行き当たる。

昼の雲とべり春愁にあるをとこ
いちご真紅掌の静脈は透けて見ゆ
愚かなる愁ひ重ねて梅雨灯す
霙きぬわが誕生の魚焼けば
傷心の身に春雪をまぶしめり

ナイーブな内面を俳句形式に託して表出したこれらの句には、どこかタガの緩んだような甘さがあるが、その甘さがかえって、青春の日々の傷心や愁いを吐露したこれらの句を一入甘美なものへと昇華しているようにも見える。だが、兵となって以後このような作風は徐々に変化していく。従軍中の作品のなかで最も目を引くのはスマトラ島での戦いを詠んだ連作であるが、この連作においても血生臭さのほとんど感じられないのは松本の資質によるものであろうか。

スマトラ派遣軍で転戦す 二十六句
赤とんぼ飛べりパパイヤ喰ふ木蔭
魚はねて月の水蓮傾きぬ
椰子の陰女たつきの米をつく
伏せて撃つ銃身すらも灼けゐたり
兵の掘る砂に灼熱地獄あり
よひら咲いて雨の歩哨路明るかり
しんかんと除夜の天籟兵営に

もちろん、この句集は川口や中島の選のもとに編まれたものであって、彼らが選をする段階で外された句も多くあったことだろう。しかし、そうであればなおのこと、周囲が松本に何を期待していたのかが見えてもくる。

靑志君を陸軍病院に見舞ふ      川口さゞれ
和やかに靑志はありぬ花葵
紫陽花に明るさのこし別れけり

入営後に病気療養のためしばらくの間入院生活を送ることになった松本を見舞ったときの句である(『鶏頭陣』昭和一七・九)。このとき松本は二二歳。俳句や学問への抑えがたい思いを抱えたまま応召した、自らと同年代のこの青年の姿はしかし、川口の目にはこんなふうに穏やかなものとして映ったのである。同じ頃、松本もまた次の句を詠んでいる。

陸軍病院 四句
チユーリツプより櫻草よし熱に臥す
靑き踏む試歩のたかぶりおのづから
若葉風入れて湯槽にひたりゐる
夕雲の光りしづもる紫陽花に

川口の「紫陽花に明るさのこし別れけり」とは、松本に対する回復への祈りと、この得がたい友との別れがたさを詠んだものであろう。一方で、松本は川口同様に紫陽花に射す光を詠みながらもいっそう穏やかである。以前は多く見られた感傷的な語彙が少なくなってくるのは、この兵隊時代以後のことであるが、さらに戦後の炭坑夫時代にはかつての繊細さをうかがわせつつも、その句はもう少し端正なものへと変じていくようである。

春日やトロはひねもす硬(ほた)かへす
坑口を出でて梅雨寒身近くに
炭を掘ることにも慣れて麦熟るゝ
迷ひ来し坑内の灯蛾いとしとも
麦刈つて炭鉱の人すこやかに
蛍きて薄あかりせる鉄路かな
梅雨晴れや炭塵の息深く吐く

復員した松本がどうして炭鉱へと向かったのか、その理由は定かではない。ただ、復員直後に次の句がある。

春愁や想ひはめぐるみんなみえ

昭和二一年に松本が内地へと戻ったとき、実家は焼失し父はすでに他界していた。川口はまた『靑土』跋文で「彼の前にはもはや素逝もなく凄雨もなく、俳句も何もなく、あるのはただ激しい闘いのみであつた」とも記している。素逝はいうまでもなく長谷川素逝、凄雨は『鶏頭陣』に戦地から投句していた今井凄雨である。句に詠まれた「みんな」とは、こうした肉親や敬愛した俳人たちのことであったろう。失意のなか姉の家でしばらく暮らした松本は、誰にも告げずに突如福岡の炭鉱へと去った。「梅雨晴れや炭塵の息深く吐く」とはそのなかでの一句であったが、絶筆となった次の句はこれとよく似ている。

炭塵の息梅雨晴れの天へ吐く

偶然ではあるにせよ、松本が足元でも正面でもなく空を仰ぐ姿勢を映したこの句をもって逝ったのは、自ら俳号とした「靑志」の名にいかにもふさわしく、またそれが一人の青年の死のありようとしてはあまりに出来すぎているだけに、いっそう物悲しくも思われる。