海東いたる『野分』(昭和二三、非売品)の一句。
本書は昭和二一年一二月二七日に死去した海東いたる(致道)の遺句集である。本書はいたるの母(海東幸子)が息子の三回忌を迎えるにあたって手向け草として編んだもので、奥付には編集者に伊藤太喜次、発行者に海東次郎(いたるの弟)の名が見られるのみであるが、実質的には母の尽力が大きかったものと思われる。
海東いたるは福岡県福岡市で生まれ、その後幾度かの転居を経て一五歳で上京、慶応大学医学部を卒業した後は海軍軍医中尉として海南島や呉の海軍病院で勤務した。転機となったのは昭和一七年。この年には南方作戦開始とともにトラック島へ派遣され、第四艦隊司令部に着任するとともに軍艦沖島で外南洋方面攻略戦に参加、その後八月にはラバウルで第八根拠地隊の派遣勤務救援隊指揮官として第一線に立っていた。
日本を離れてから一年余りが過ぎた昭和一八年四月、派遣先のラバウルで発病、海東は自らがかつて勤めていた第八海軍病院に入院することになる。句集巻末の年譜によれば発病は過労によるものであったらしい。五月には横須賀海軍病院、続いて横須賀市野比海軍病院に転院し、徐々に回復し始めた翌一九年五月頃、海東は俳句を作りはじめた。本書巻末で母の海東幸子は次のようにいう。
致道が俳句に志したのは、病を得てラバウルの戦場から帰還し、野比海軍病院に居た頃で、たしか昭和一九年の五月頃であつたと思ふ。初めは同好の人達と一緒に、たゞ病中のつれづれを慰める程度のものであつたが、後には、父の会社に勤めて居られた小山火麓氏のお勧めに従つて、中部配電の句会に参加させていたゞき、間接ながら富安風生先生のご指導を仰ぐやうになつた。(「母のことば」)
本書上梓にあたって風生が選句を担当し序文も記しているのはこうした事情によるものである。俳句を始めてから一年後の昭和二〇年五月、海東はようやく退院し、九月初めに復員するまで霞ヶ浦海軍病院袋田分院で再び軍医としての務めに従事した。復員後は伊豆の月ヶ瀬にある慶應義塾大学の温泉研究所に赴任したがわずか一ヶ月で再び発病、一年余りの闘病生活の後死去した。三一歳であった。したがって海東の句作期間は三年にも満たない短いものであり、その大部分は療養生活のなかで書かれたものであった。
ふるさとの月の堤を歩きけり
戦友の屍を焼く良夜かな
看護婦に手をひかれつゝ栗拾ひ
俳句を始めた昭和一九年の作品である。過労を基因とする発病であったにもかかわらず退院後すぐ軍医として働きはじめたのは、海東のうちにあった使命感の強さをうかがわせる(袋田分院時代には「暑に負けじ看護の任の重ければ」なる句も見られる)。そのような海東にあって、戦争末期の状況のなか医師ではなく患者として過ごす日々に去来した思いはどのようなものであったろう。しかし全体のトーンは驚くほど冷静で、むしろ穏やかな表情さえ湛えている。それだけに、昭和二〇年の再発直後に次の句が見られるのは、この再発が海東を心身ともによほど苦しめたものであったことを想像させる。
病気再発 五句
蜩や旅の病のかりそめに
露の身のいたつきに臥す気の弱り
露の身の不孝を詫びる言葉なし
萩紅く不孝を詫びる言葉なし
再びの病に伏して冬籠
さて、表題句は昭和二一年の句である。この年の一二月に入ると病は呼吸困難さえ伴うものとなり、次いで絶食状態、ついには死へと急速に悪化していくが、この句が書かれたのはその少し前―しかし病のかなり進行していた時期であった。
彼はその春の頃から、とくに病の癒えがたきを悟り、死ぬる日の遠かるまじきを予知したのであつたが、しかも心静かに療養の法則を守り、病気の経過を丹念にその日記に書き留めてゐた。(前掲「母のことば」)
表題句と同じ頃に書かれた句に「同病のわれも修する獺祭忌」がある。たとえばハンセン病患者であった浅香甲陽は「子規まつり癩文学を負ふわれら」と詠んだ。浅香は昭和二二年に気管切開をし、その二年後に亡くなっている。年齢こそ海東よりも十歳ほど上だが、同時代を生きた俳人であった。「咽頭切り三年」といわれたように気管切開はハンセン病患者にとって末期症状を意味するものであり、この手術をもって患者はいよいよ自らの死を覚悟しなければならなかった。しかし浅香は病を負う自らのありようを「子規まつり癩文学を負ふわれら」と高らかに詠うことで、むしろ自恃へと転位させたのである。ただ、(「われ」と「われら」の違いはあるにせよ)こうした自恃ということであるなら「同病のわれも修する獺祭忌」と詠んだ海東と共通するところがある。
だが、浅香には次の句もある。
子規は眼を失はざりき火取虫
金魚玉子規の号泣うらやまし
このように自らを凝視しえた浅香が優れた書き手であったことは間違いないだろう。一方海東の場合、ときに「不孝」な子としての嘆かいを露わにすることはあっても、こんなふうに他者に対して感情を昂らせた句はほとんど見当たらない。
病床に坐りてもみる遅日かな
病人に大虎杖を見せに来ぬ
百合の香の高きにさへも咳き入りぬ
病室の窓一ぱいの雲の峰
ベツドより団扇の落ちし音なりし
蜻蛉の日々に殖えゆく窓に病む
「主治医たゞ野分の話して去りぬ」もまたこれらの句と同様のトーンを有しているが、こうした句に見られる静けさを、たとえば諦念だとか達観だとかいう大人ぶった言葉で説明するのはどこか賢しくもあり、海東の句に似つかわしいものとも思われない。何といっても海東はラバウルで得た病が回復し始めたとき「猫柳ふふめる試歩の路たのし」と朗らかに詠ったような若者なのだ。だから僕は、こうした静けさは妙に老成したような振舞いによるものなどではなく、むしろ「不孝」な子としての負い目を抱えつつも死を前にした海東が、ごく身近な人々に対してほとんど唯一なしえた健気な献身の結果ではなかったかと思うのである。たとえば僕は次の句の延長線上に「主治医たゞ」の句を置いてみるとき、初めてこの句の静けさの本質が見えてくるような気がするのだ。
われ咳けばみとりの母の寝も浅く
みとりする母の昼寝のすこやかに
外套を召して見舞の父元気