【99】高砂の嶋の初日の光かな     出口王仁三郎

出口王仁三郎『言華』(上巻、みいづ舎、平成一九)の一句。
出口王仁三郎は、大本(大本教)の教祖として知られる人物であるが、王仁三郎は宗教家としての顔だけでなく美術家、文学者としての顔も持っていた。というよりも、王仁三郎みずから「宗教即芸術」「芸術は宗教の母なり」と唱えたように、これらは王仁三郎において不可分のものであった。『言華』は「昭和三年一月から十年十二月に発行されていた大本の機関誌『神の国』に発表された王仁三郎の全短歌、詩歌、俳句、自由律など六九七三首を掲載」(「あとがき」)したものである。
王仁三郎は美術家としてその楽焼は海外で高い評価を受けており、全八一巻、原稿用紙換算で十万枚を超える「霊界物語」なる大作もある。また短歌では一日に二~三百首を詠み、十五万首以上という超人的な量の作品を遺している。だが王仁三郎のこうした作品を僕たちは今日ほとんど目にすることがない。これは大本教がしばしば国家の弾圧の対象となってきたことと無関係ではあるまい。大本教はもともと「お筆先」と呼ばれる出口なおの教えを重んじていたが、いくら王仁三郎が体制との理論的な協調を図ったとはいえ、近代文明を忌避するその「お筆先」は必ずしも現行の支配秩序と共存しうるものではなかった。大正一〇年、不敬罪と新聞紙法違反でついに王仁三郎は収監される。綾部に建立したばかりの神殿は破壊され、王仁三郎の書や焼物も押収されてしまった(第一次大本教弾圧事件)。
先の「霊界物語」の制作が始まったのはこの弾圧事件後のことである。なおの「お筆先」が喪失したためにそれに代わる教典として弟子に口述筆記させた「霊界物語」は「人は誰でもみずからの内に神のことわりを持つことを説き、それを一種の憑依術を通じて引き出す王仁三郎ならではの鎮魂鬼神法を、みずからの身に受けて実践した生涯最大の成果であった」(椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』幻冬舎、平成二七)。
興味深いのは、その「霊界物語」のなかに五音・七音のリズムからなる歌がしばしば登場することである。

時間空間超越し 現幽神の三界を
過去と未来と現在に 通観したる物語
伊都の教祖が艮の 神の御言を蒙りて
現はれ給ひし瑞祥の 明治は二五の年
それに因みし巻の数 須弥仙山に腰を掛け
三千世界を守ります 神に習ひて掛巻くも
畏き神の現れませる 高天原の大宇宙(以下略)
(『霊界物語』第二五巻)

そして驚くべきことに、「霊界物語」の終盤にあたる「天祥地瑞」編は、そのほとんどが短歌によって占められているのである。『出口王仁三郎著作集第四巻 出口直日選 十万歌集』(読売新聞社、昭和四七)の編者である上山南洋は、その解説で「そのほとんどを短歌形式による物語(問答歌)―つまり〝連歌〟で完成している」とし「こうした著作は、日本歌壇史上において、かつてないことであり、おそらく今後もありえないのではないか」と述べている。「天祥地瑞」編に収められているものが「連歌」であるか否かはやや疑問だが、しかしながらかなりの異色作であることは間違いない。
このように「生涯最大の成果」たる「霊界物語」は五音七音からなる日本の詩歌のリズム切り離せないものであった。とすれば、短歌の世界にのめり込んでいったのがやはり第一次弾圧後であったことは看過できない問題であろう。『王仁三郎歌集』(太陽出版、平成二五)の編者である笹公人によると、王仁三郎は幼少の折に祖母うのより言霊学や百人一首を学び、二二歳のころには国学の大家である岡田惟平から和歌を学んでいたという。大正一五年には和歌と冠句の会「月光会」を設立、翌月にはさらに和歌の会「月明会」を設立した。この頃からすでに和歌に関する著作や自身の歌碑を建立しているが、昭和五年に前田夕暮と出会うや、夕暮の主宰誌『詩歌』に参加。これを機に昭和六、七年ごろまでには約百の結社に入会している。こうした短歌誌に二~四〇首を毎月送付し昭和六年から約二年間で一一冊もの歌集を上梓したというのだから、凄まじいペースである。もっともこれは短歌に限ったことではなく、かつては「安閑坊喜楽」の名で狂歌、狂句、都都逸、戯文の類を雑誌に投稿していたこともあったというほどであって、王仁三郎の投稿欲は一朝一夕のものではないのだ。そんな王仁三郎の歌集を繙くと、編年順で構成された各歌集の目次に興味深い特徴が見られる。それは、自分が歌を投稿した雑誌名で項が立てられていることだ。歌集を上梓する際に歌集をもってひとつの作品となすべく作品を編み直すという意識は王仁三郎にはなかったのだろう。年ごと、雑誌名ごとに並べるという編集方法はいかにも殺風景だが、文字通り息つく暇もなく歌を詠み続けるだけでなく、そうして詠んだ歌を発表しないではいられない王仁三郎の猛烈な発表欲を考えればごく自然な方法であったにちがいない。
しかしながら、あまりにも特異な王仁三郎のスタイルは歌壇の常識を超えるものでもあった。

 このような王仁三郎の快進撃は、当然のごとく歌壇に大きな反響を巻き起こした。教団大本の総帥者としての特殊な環境から、昼夜を問わず側近による口述筆記を行い、推敲をしないままに発表の場を求めるという王仁三郎の発表スタイルに対しては、多作主義、非芸術的行為など、歌壇から否定的な声があがる。時には女性会員のみの結社に女性の名で入会し、女性になりきって詠んだ歌を投稿していたというのだから自由すぎる。
 そしてついには複数の結社を掛け持ちしていたことが直接的なきっかけとなって、当時歌壇の主流を占める「アララギ」や「香蘭」から除名させられるということが起こった。(前掲『王仁三郎歌集』)

型破りな歌人としての王仁三郎は歌壇にとっていささか厄介な存在であったようだ。笹公人は「当時の歌壇における王仁三郎の登場に対する一種のセンセーショナルな反応、短歌に対するこうした評価(前田夕暮、尾上柴舟、尾山篤一郎らの好意的な評価―外山注)は、弾圧事件以後の歌壇からの抹殺によって短歌史からバッサリ切り捨てられている」と述べているが、王仁三郎の短歌が今なお十分に論じられることがないのはこうした事情によるものだ。
それにしても、なぜ短歌だったのか。あくまでも想像にすぎないけれども、僕にはこれが、短歌が天皇をその担い手としてきた形式であったことと無関係ではないように思われてならない。考えてみれば「霊界物語」の内容には神代以来の日本史の独自解釈を行っている部分も見られるが、短歌を詠むということもまた当時の日本における支配的な秩序との交渉の手段―いわば現実の秩序の「立替え」(破壊)「立直し」(再生)と協調のためののっぴきならない行為であったのではあるまいか。実際、十万首超を詠んだという逸話は、たんなる多作主義のあらわれとして解するよりも、短歌を詠むという行為が王仁三郎においては宗教家としての危機感に立脚した、どこか鬼気迫るものであったことを示唆しているように思われてならない。

 そもそも、敷島の道とは惟神の道であり、かんながらの道は至誠である。誠あれば人をも感ぜしめ、鬼神をも泣かしめ、神明の心を歓ばしめ、天下を和めることができる。しからば、かんながらの道に生い立ちたる我国人としては、必然、和歌は詠まねばならぬものである。歌なるものは、実に霊妙なるもので、治国平天下の大道も、歌の力によって遂げ得らるるものである。(出口王仁三郎「創刊の辞」『月明』昭和二・一)

その意味では、歌は歌でも俳諧連歌にそのルーツを持つ俳句をさほど残していないのは当然のことだったのではあるまいか。今回紹介するのは短歌に比べるとはるかに数の少ない王仁三郎の俳句であるが、表題句をはじめとする数句を発表した際、王仁三郎自身はこれらを「俳句」とは呼ばず「瑞句」と名付けたことには注意すべきだ。『言華』の編者があとがきで「俳句」という呼称を用いているように、第三者からは「俳句」のように見えるものであったとしても、王仁三郎にとってそれは「俳句」とは異なる名で呼ばれなければならなかったということ―このことは王仁三郎の「俳句」観を考えるうえで重要な問題であるように思う。

瑞句
思はざる方より嶋の日の出かな
鑑賞の外に用なき椰子樹かな
夏ながら新高山の暮雪かな
物売りの声いと高し嘉義の町
初日影心の空も明けにけり
初日の出心の鬼も消えにけり
珍らしく嶋の初日を拝みけり
更生の光普ねし初日の出
大屯山雲片(くもぎれ)もなし初日の出
高砂の嶋の初日の光かな

初出は大本教の機関誌『神の国』創刊号(昭和三・一)。「瑞句」は全二〇句で構成されているが、その一部を引いた。発表当時、王仁三郎はまだ歌壇への本格進出を始めていなかったが、この年には芸術の府として「明光殿」を設立し文芸機関誌『明光』を発行していた明光社をここに置いている。『大本七十年史 上巻』(大本七十年史編纂会編、宗教法人大本、昭和三九)によると、王仁三郎は昭和二年一二月九日から二七日にかけて出口宇知丸、高木鉄男、岩田久太郎らと台湾巡教を行っている。この時期大本教は活発に宣伝活動を行い日本各地に支部・分所を増設しており、台湾巡教もそうした流れのなかで企図されたものであったろう。一行は台湾各地で講演を行ったが、さらにその後台湾駐在の宣伝要員として河津雄が妻と渡台することとなったのである。なお台湾巡教を終えた王仁三郎らは一二月三一日に那覇に向かい、沖縄支部渡嘉敷唯良宅で新春を迎えている。「瑞句」はこうした状況で詠まれたものと考えられる。「高砂嶋」(台湾)、「新高山」(玉山)、「大屯山」のほか、「嘉義」など台湾の地名が頻出するのはそのためである。
興味深いのは、この「瑞句」を読むかぎり、王仁三郎はあたかも台湾で初日の出を拝んだかのように見えることだ。俳句では雑誌発行の時期に合わせて季節を先取りして詠むことがあるが、しかしながら王仁三郎のこの句をそれと同一視してよいものだろうか。というのも、王仁三郎の「瑞句」は俳句のようにも見えるにもかかわらず、同時に「俳句」とは異なる名で呼ばれねばならない何ものかであるはずだったのである。
ここで再び、先に引いた「歌なるものは、実に霊妙なるもので、治国平天下の大道も、歌の力によって遂げ得らるるものである」という王仁三郎の言葉を想起してみたい。そもそも、これらの句における「初日の出」に対する執着は季語としての「初日の出」に対する執着とは異なるものであろう。「初日影心の空も明けにけり」「初日の出心の鬼も消えにけり」「更生の光普ねし初日の出」とあるように、「日」の光は人心を明るく正しくするものとしてイメージされている。とすれば、「思はざる方より嶋の日の出かな」「珍らしく嶋の初日を拝みけり」からは、いまだ王仁三郎にとって未知の部分の残る―いわば大本教の教えの十分に行きわたっていない「思はざる」「珍らし」き島としての台湾を思わせる。そのような台湾であればこそ、すでに「日」の光が「普ね」行きわたっているさまを、来年の初日の出を先取りするようにしてうたいあげる必要があったのではあるまいか。ならば、そのとき必要な「歌」が、外見上は限りなく「俳句」に接近しながらも「瑞句」なる名で呼ばれなければならなかったことは、「俳句」を考えるうえでますます看過できないことのように思われる。また同時に、こうした「瑞句」のなかに「鑑賞の外に用なき椰子樹かな」「夏ながら新高山の暮雪かな」「物売りの声いと高し嘉義の町」という、毛色の異なる句が混じっているのも興味深い。「瑞句」と呼ばれたそれは、たんなる言祝ぎの方便でも「治国平天下の大道」を遂げるための方便でもないようである。このあたりの自由さには、かつての投稿魔王仁三郎の面目躍如たるものがあるというべきであろうか。
ところで、『神の国』が終刊となった昭和一〇年一二月といえば、第二次大本教弾圧事件のあった月である。島根別院の歌祭に来ていた王仁三郎は不敬罪と治安維持法違反の嫌疑で拘束され、二年後には無期懲役の判決を受け、昭和一七年に保釈されるまで約四年間の獄中生活を送ることになった。またこの間には大本教の多くの建造物や王仁三郎の全ての歌碑が破壊されてしまっている。『言華』の編者がそのまえがきで次のように述べているのは、こうした事情をふまえてのものであったのだ。

 大正十年二月十二日の第一次大本弾圧事件前を大本の第一黄金期とするなら、本歌群は、事件解決の曙光を得て綾部の神苑を天国、亀岡の神苑(大正八年、亀岡城址一万三五〇〇〇坪を買収)を霊園の移写として宣教の拠点亀山法城を急ピッチで建設し、教を『霊界物語』にと移行させ、国内外の組織体制を調え、世界救済活動に入った第二の黄金期に著されたものである。

第二次弾圧後、保釈され亀岡に戻ったとき、王仁三郎はすでに七一歳を迎えようとしていた。多くのものを失ったその晩年にあってなおその表現欲はやむことがなかったという。最後に、その晩年の作品から「第二次大本事件獄中回想歌」を紹介する。例によって膨大な量のこの連作(「獄中回想歌」は千首以上)をすべて紹介することはできないが、獄窓の内を「オリオン星座」と詠うこの連作は歌人「出口王仁三郎」の絶唱であろう。

あわてるな騒ぐな天下の王仁さんと犬を待たせて煙草くゆらす
醜館(しこやかた)の十一番のオリオンの星座に安く一夜を眠る
※醜館(しこやかた)の十一番…中建売署一一号の独房
五大州に腰を据えたる心地して我はオリオン星座に楽しむ
窓あけて見ればなつかしわが友の編笠をかむりて行く姿見ゆ
拷問にかけられ我が子のヒイヒイと苦しむ声を聞くは悲しき
湯上りのかへりに友と会ひ乍ら笠におもてを包めるはかなさ
五年ぶりに妹と相見し法の庭のほがらかにして心ゆたけき
食ふ事のほかに楽しみひとつなきわれは小供(ママ)となりはてにけり

短歌に限らず、作陶や書など、王仁三郎の芸術への関心は最晩年まで衰えなかったが、俳句の場合はどうだったのだろうか。昭和三年、王仁三郎五七歳の時には王仁三郎の「開窟」を祝う歌句集『暁天』が湯川貫一らの手によって編まれたといい、そこには俳句も含まれていたというから、俳句への関心が全くなかったという訳でもなさそうである(前掲『大本七十年史』)。いずれにせよ王仁三郎の作品はきわめて膨大であり、またその異色さゆえに、まだまだ詳らかでない部分があまりにも多い。