【71】味はよし/それに添えたい/ブエの夜     平山公敬

平山公敬『地球の裏側をまわって 南米の土佐っ子たち』(岸野栄馬、一九六九)の一句。
本書は高知県議会議員だった平山が一九六八年にパラグアイをはじめとする南米諸国を調査した際の出来事を記した紀行文である。調査に向かったのは平山のほかに弘田尊男(高知県農林部林業課長)、山﨑俊二(高知県農林部林業課主幹)、別府和孝(高知パルプ工業株式会社高知工場長)の三名であった。本書冒頭にはこの派遣事業について次のように記されている。

こんなパラグイア(ママ)に、戦後移住した日本人の中で、高知県出身者が圧倒的に多く、定着率、成功率もよい方である。高知県としても、これら郷土出身の開拓移住者をバックアップし、その経営基盤をつちかうねらいもこめて、パラグアイの豊富な自然の資源を利用して、同国の国土開発に寄与するとともに、郷土の経済振興にも役立てようとの一石二鳥も三鳥もねらった政策の推進を企図している。
主たるねらいは植林とパルプである。そのため、昭和四〇年技術協力のために編成された調査団に引き続く第二次調査団として、私たちは東京にある「パラグアイ総合開発協力会」から、同国へ派遣されることになった。

すでに戦前からパラグアイへの移民はあったものの、戦時中の国交断絶を経て、戦後の引揚者や復員軍人などの余剰人口への対策として移民事業が進められるなか、一九五〇年代なかばにはパラグアイへの移民も再開された。一九五九年には日本パラグアイ移住協定が締結され、その二年後にはこの協定に基づくイグアス移住地が開設されたものの、日本の経済成長もあってその後は移民が減少している。
平山もこのイグアス移住地を訪れたようだ。

 イグアス地区は一一五戸の移住者のうち、高知県出身者は一五戸である。新規入植は公文、岡林両氏のみで、他はフラム地区から一二戸、アルトパラナ地区から一戸という転居移住者によって占められているという。他の移住者も大半が転居移住者の混成移住地域である。(略)
 フラム、アルトパラナ移住地の四分の一の面積であるが、粗収入は両地区よりはるかに高い。フラム、アルトパラナからイグアスへの転居移住者は、農業経営の拡大ができなかったり、基幹作目で失敗したもの、あるいはパラグワイ国(ママ)の総合開発計画やデルタプランによる将来の発展性は、イグアス地区だとの見通しをつけて転居したものなどが、八〇パーセントにのぼる。

ここからうかがえるように、イグアス地区は他に比べ将来性の見込まれた移住地であった。新規入植者の受け入れは一九六三年から始まったはずだが、その五年後の平山の訪問当時において高知県からわずか二戸であったというのは当時の移民事業の現実を物語っているように思われる。なお、この記述に登場するフラム地区とは、日本海外移住振興株式会社が購入し一九五五年に入植が始まった、戦後の入植地としては二番目に古いフラム移住地の真ん中に位置する地区である。当初原始林のなかにあったこのフラム地区は交通の便がきわめて悪く、また受け入れ側の準備不足や入植者の農業経験不足などもあって、援護を求める嘆願書を国会に送付するほどの窮状を呈した。なお、このフラム地区の北に位置するサンタローサ地区は高知県大正村からの町ぐるみ移住が企画された地であり、高知県との縁の深い移住地でもある。本書によれば平山が訪問した当時サンタローサ地区には一一二名が暮らしていたようだ。また、アルトパラナ地区はフラム地区の満植に先だって日本海外移住振興株式会社が一九六〇年に開設した移住地で、こちらはこれまでの経験を活かして開設された移住地であったが、やはり入植者の生活は困難なものであったという。
平山はイグアスの前にサンタローサ、アルトパラナ両地区を訪れているが、「移住八年を迎えながら今日なお生活の基盤が定まらず、日本から担ってきた夢と希望と現実との差の大きさに戸惑い続けているものもいる」という現状を踏まえて次のようにいう。

勤勉努力しなくともこの国では最低生活には困らない。しかし二万ガラニー~三万ガラニーの収入しか得られない者が希望と意欲を失なって俗化(土人化)するケースも心配される。こうした生活面だけではなく憂慮されるのは、二世、三世に対する教育問題である。
二世、三世の中には日本語も充分に話すことの出事(ママ)ない子供がたくさんいる。このまま放置すると、母国を忘れ、日本民族としての誇りも使命感もうすらいで、やがては現地人の水準に埋没してしまうおそれもある。
ドイツの移住民はドイツ語を勉強させ、家庭ではドイツ語以外は使わせない。ドイツ移住民の二世、三世はパラグアイ国民であると同時にゲルマン民族としての誇りをもっている。このような姿勢と対策が、異境開拓の成否と無関係だとはいえないだろう。

移民事業の成功とナショナルアイデンティティーとの関係性についての平山のこうした言葉に対し、僕はここで何か言うつもりはない。ただ気になるのは、母国を覚えているとか、日本民族としての誇りや使命感があるというのは、具体的にはどういう状態を指すのかということだ。たとえば、平山ら調査団一行はパラグアイの後に訪れたアルゼンチンで、首都ブエノスアイレスにある日本料理店「遊亀」に立ち寄っているが、本書にはそこでの次のようなやりとりが記されている。

 夕食には、彼(伊藤忠商事の小川氏―外山注)の案内で日本食を開業している「遊亀」というアルゼンチン式割烹店に行き、久方振りに日本料理の風味を味わった。
店には記念帳があり、一筆たのまれた。
課長と山崎君はさっさとサインした。別府さんは「ゆうき」(遊亀)という店名をもじって一句ひねった。
湯(ゆ)島の白梅
浮(う)草流し
岸(き)辺さだかに夢おかし
句になったかどうかわからないが、私は久方振りに日本料理に舌鼓を打つ団長の心境をつづってみた。
味はよし
それに添えたい
ブエの夜
カオル

別府の記した作品について平山は「一句ひねった」と書いているが、「句になったかどうかわからないが」として五七五の俳句のようなものをしたためていることから察するに、平山は別府の作品を俳句として認識している可能性がある。しかし、七七七五という音数律を鑑みればこれはむしろ都々逸と呼ぶべきではなかろうか(もしかしたら平山もこれを都々逸として考えていたのかもしれないが、ならば都々逸を「一句」と数えるのは妙である)。また、別府の「句」にある「湯島の白梅」とは「婦系図の歌(湯島の白梅)」(佐伯孝夫作詞、清水保雄作曲)を下敷きにしたものであろう。一九四二年に発売されたこの曲は同年公開の映画「婦系図」(マキノ正博監督)をもとに制作された。「婦系図」は戦後数回にわたって映画化されているが、「婦系図の歌(湯島の白梅)」もまた多くの歌い手によってカバーされている。別府の脳裡にあったのが戦前版(小畑実・藤原亮子版)であったか戦後版であったかはわからないが、たとえば戦後版であれば「婦系図 湯島の白梅」(衣笠貞之助監督、一九五五公開)主演の鶴田浩二が歌う同曲であったかもしれない。

湯島通れば 想い出す
お蔦主税の 心意気
知るや白梅 玉垣に
残る二人の 影法師

忘れられよか 筒井筒
岸の柳の 縁むすび
かたい契りを 義理ゆえに
水に流すも 江戸育ち

青い瓦斯燈 境内を
出れば本郷 切通し
あかぬ別れの 中空に
鐘は墨絵の 上野山

ようするに別府の「句」は芸者上がりのお蔦と早瀬主税との悲恋を描いた「婦系図」を想起させるのだが、こうしたモチーフも都々逸にあっては決して珍しいものではなく、「四国西国島々までも都々逸ア恋路の橋渡し」という都々逸まであるくらいだから、むしろこうしたモチーフこそ「都々逸らしい」のかもしれない。
ところで、ここで興味深いのは、平山がこれを「句」といい、まるで俳句と混同しているかのように見える点である。仮に、俳句と混同してはいないまでも、こうした都々逸とかなり近しいもの、地続きのものとして俳句という表現形式を認識していたのは間違いないだろう。僕は平山の無知を糾弾したいのではない。僕はあくまで、俳句形式がこのように認識されうるものだということを確認しておきたいまでである。
平山の「句」を改めて見てみよう。「味はよし/それに添えたい/ブエの夜」とあるが、この句に続いて平山は次のように記している。

ホテルへ帰る道すがらは粋人小川さんにタクシーで夜の歓楽街を案内してもらった。
リオ(ブラジルのリオデジャネイロ)には外国の商社等が沢山来ている。その駐在員の中には民法や戸籍法に基づかない契約で現地の美人を臨時妻としている者があるという話がある。彼等の駐在期間は平均二か年である。その間彼等は他の市民がらビジネスに精を出す。さて帰国となると後任者に事務引き継ぎと同時に、現地妻も引き継ぎする。後任者は洗練された現地妻のバトンタッチをうけ、新任地のわびしさも、不自由もなく職務に励むことができるというわけである。他の会社員たちの羨望のマトになっているそうだ。

きわめて俗っぽい解釈にならざるをえないが、この「句」はブエノスアイレスの夜の歓楽街を堪能する男たちに思いを馳せたものであろう。そういえば平山はパラグアイを回想して次のように記してもいた。

男という動物は旅行をすると解放感に酔いしれるもの。夜のとばりとともに気になるのが、街の姫君たちの魅惑である。もちろん、私達四人は土佐を代表する品行方正の紳士ばかりである。異国の姫君に記念の足跡を印さずとも、その生態ぐらいは知っておかないと南米の土産話にもならない。帰国すれば、「そんなことは知らない」では周囲が納得してくれそうもない。(略)
土産話のネタになるとはいっても、〝国際試合〟ともなれば、二の足をふむ。日本まで金鵄勲章の土産でもあるまい。
「南米で千人斬りの悲願成就まで、生きて御国の山河を踏まず」と若い頃なら、意気ごみもしただろうが。

こうした平山の倫理観についてここでは何も言うつもりはないが、南米諸国をめぐるなかで醸成された気分が別府の都々逸を経て平山の「句」へと結果したとすれば興味深いことだ。これはひとり平山のみの問題ではない。そもそも俳句形式は、形式へのこうしたおおらかな認識をともないながら流通しているものではなかったか。ともすれば「日本民族」の「誇り」高い表現形式として見なされる俳句形式が、その実どういうわけか貶められているかのように見えてしまうこのような例は僕たちの周りにいくらでもある。たとえば安倍首相が「給料の上がりし春は八重桜」と詠み、「柿食えば景気よくなる奈良のまち」と詠んだのは、俳句形式を邪険に扱っているわけではなく、俳句形式を日本語による優れた表現形式として尊重しているからこその行為であったろう。安倍首相の句の安直さや無神経さについて批判をするのは当然のことだ。しかしその時、その批判者は、僕たち自身の俳句形式についてのあまりにもおおらかな認識が安倍首相の句の出生を許したのだということもまた思うべきではなかろうか。そして本当に誠実に俳句形式と向き合うのなら、僕たちはこのあまりにもおおらかな認識を否定せずに、そのなかにある自らの姿を思いながら、俳句形式と対峙すべきではなかろうか。