【78】決めかねる 思いたたんで 夏支度     伊藤直子

永六輔・﨑南海子・遠藤泰子編『七円の唄 誰かとどこかで ことづて』(朝日出版社、二〇〇一)の一句。本書は一九六七年から二〇一三年までTBSラジオをキーステーションとして月曜から金曜にかけて放送されていたラジオ番組「誰かとどこかで」(開始当初は「どこか遠くへ」)の一コーナー「七円の唄」を書籍化したものである。同番組のパーソナリティーを務めていたのは永六輔と遠藤泰子(開始当初は佐藤ユキ)であり、「七円の唄」はリスナーから送られてきた葉書を永と遠藤がかわるがわる読んでいく、というものであった。朝日出版社による「七円の唄」の書籍化は一九九七年から始まっており、本書はその五冊目にあたる。
葉書の内容は、日常のちょっとした感慨を綴ったものが多く、たとえば次のようなものだった。

久しぶりに遊びに来た妹の前に通信販売のカタログ帳を広げて、
「これを二人に買ってやろうか」と言った父。
父は護身用のカラシスプレーを指さしていた。
妹は笑いころげ、私は泣きそうになった。
四十一歳の妹と四十七歳の私。
高校や中学の子供がいる、古い娘です。
それでも父にとっては気がかりな娘。
お父さん、私たち大丈夫、自分を大切にするから。
(埼玉県狭山市 佐藤すばる(47歳)「古い娘」)

松もとれて、雪が二十センチも積もった日、息子あての年賀状が届いた。
「年賀状ありがとう」見覚えのある美しい文字が並んでいます。
それは以前、たぶん息子が好きだった娘さんからのもの。
裏返せば、美しいウェディングドレスの花嫁と、くやしいが、息子より数段も男前の花婿がニッコリ笑いかけていました。
「結婚したんだねえ」見ていたら不覚にも涙が流れてしまって……。
仕方がないので、しばらくそのまま泣いてしまいました。
だれもいない雪の陽の午後に届いた年賀状に、「参りました」と頭を下げた。
(長野県上伊那郡 豊岡秋子(55歳)「失恋年賀状」)

ここにあるのはつつましやかに生きている人の姿である。破綻のない人生―というよりも、破綻することのないように懸命に生きている人、あるいは、懸命であることを忘れて生きている人、と言ってもいいかもしれない。それを象徴するのは次の葉書であろう。

雨の強い日、なかなか来ないバスに皆いらいらし、口々に「何かあったのだろうか」といった表情の時。
私のすぐ後ろに居た七十歳前後のご夫婦も、
「どうしたのでしょうね」
「事故でもあったのでしょうか」と静かな声での会話。
聞くともなく聞いていたのですが、ご夫婦ともことばづかいが美しくて、ふっと小津安二郎の映画を観ているようでした。色々話しかける夫人に静かにうなずくご主人の様子は、佐田啓二のようにも思えました。
私もこんなふうになりたいと願っていました。
(神奈川県大和市 杉浦侑子(56歳)「バス停」)

自らの日常に「小津安二郎の映画を観ているよう」な感覚を発見し、「小津安二郎の映画」に出てきそうな夫婦に憧れる、という個人的な感慨に対してあれこれ言うべきではないだろう。けれど、小津作品がときに抱え込んでいるある種の残酷さを思うとき、この小文もまた、どこか異様なものに見えてもくるのである。たとえば「晩春」「東京物語」にせよ、あるいは「お早よう」や「秋刀魚の味」にせよ、小津作品に通底するのは静寂への回収、静寂の希求というべきものではなかろうか。それはいわば、「いま」という状況において生じた波風を「いま」の想像力によって解決していこうとする思考であって、その解決策の信頼性は、友人や家族や近所の人など自らをとりまく「いま」の状況を大きく逸脱しない限りにおいて維持される。小津作品にある静寂が残酷さをはらむのは、「いま」という状況からの逸脱を是としない倫理が、つつましく優しい表情をしながら、しかしきわめて断固たるものとして提示されるためであろう。
バスが来ないということで生じたささいな波風に「どうしたのでしょうね」「事故でもあったのでしょうか」と「静かな声」で話す夫婦とは、逆に言えば、それ以上の何か行動を起こすこともなく(「いま」という状況を変革する意思がないという意味において)「いま」を肯定する夫婦であり、だからこそこの声の静かさが「美しい」ことばづかいと相俟って「小津安二郎の映画を観ているよう」な感覚を「私」にもたらしたのではなかろうか。

泣きたい。いま、おもいっきり泣きたい。
泣き場所を探して、自転車で走る。
ウォークマンから流れてくる音楽をききながら、心の中で泣く。
泣く場所はどこにもなかった。
家に帰って夕食のしたく。
何だ、たいしたことないじゃないか。
たったそれだけのこと。
(東京都江東区 佐藤薫(48歳)「泣きたい」)

「七円の唄」のそれぞれの葉書に共通するつつましさや優しさは、本当はその裏側に残酷なまでの抑圧の記憶を抱えている。「七円の唄」がときにそらぞらしかったり傲慢なものに見えたりしてしまうのは、そこで読まれる葉書がほとんど一様に、こうした記憶に執着せずにむしろそれを裏側へと押しやることによって懸命に「いま」を生きる人の姿を記したものだからである。
さて、この「七円の唄」にはときどき俳句が登場する。俳句だけを記したものもあれば、俳句と文章で構成されるものもある。

母の名を 下着にしたため 迷う夏
決めかねる 思いたたんで 夏支度
(なれぬ俳句など作ってしまいました)
一週間の入院後、急に痴呆が進んでしまった八十七歳の母。三女である私の家族のところへ来てもうすぐ五年、たばこを吸い、じっとしていられなくなった母。二人の姉と迷いの末、老人ホームへの入所を決めました。
探し歩いて決めた、川沿いのホームから見える風景は、母が結婚したての頃にいた風景に似ている、そんな気がするのは、私達の気休めでしょうか。
暑い夏は終わるけれど、迷いの気持ちは終わりがないのかも知れません。
(東京都江東区 伊藤直子(51歳)「迷う夏」)

迷いながらも母を老人ホームへ入所させることを決断したあとで、「探し歩いて決めた、川沿いのホームから見える風景は、母が結婚したての頃にいた風景に似ている、そんな気がするのは、私達の気休めでしょうか」と記す、この「私達の気休めでしょうか」の一言にこそ「七円の唄」の倫理がある。たとえ「気休め」であろうとも、そう思うことでようやく「いま」を生きられる者もいる。ならば、その「気休め」の何がいけないのだろう。そしてこの「気休め」こそ、伊藤に「思いたたんで」と詠ませたもののひとつであったろう。