【100】霜月を中島敦の虎は吼ゆ     澤田和弥

澤田和弥『革命前夜』(邑書林、平成二五)の一句。
むろん「山月記」の一節をふまえてのものであろう。

たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は?己は堪らなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯だ、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。(中島敦「山月記」)

澤田和弥は今年三五歳で亡くなった。「謹呈」と書かれた栞の挟まれたほとんどまっさらなままのこの句集を前にして、今の僕は何かを言うのが怖くてしかたがない。巻末の略歴には「昭和五五年、浜松市生。早稲田大学大学院修士課程中途退学。早稲田大学俳句研究会などを経て、平成十八年、「天為」入会」とある。僕よりも三つ年上の澤田に会う機会を、僕はついに持たなかった。早稲田大学俳句研究会といえば入学直後に一度だけ新歓コンパに行ったことがある。平成一四年のことだ。コンパの前に行われた句会(思えば僕にとってあれが人生初の句会だった)で春だから春の季語を入れて句をつくるように言われて心底腹を立てた僕は、その後俳句研究会に接触することはなかった。いかにも子どもじみた行動だが、そのときの僕はいたって真剣だったのだ。それ以来学部生の頃にも、その後の修士課程においても、僕は同世代の相手と俳句をつくりあったり読みあったりする機会を持たなかった(そんなふうに寂しがることが当時の僕にとって唯一の抵抗の手段だった気がするけれど、今にして思えば、僕は何に抵抗していたのだろう)。だから、おそらく澤田とごく近い場所にいたはずであったにもかかわらず、僕は澤田のことを知らなかったし、澤田もまた僕のことなど知らなかったはずである。僕たちは同じキャンパスの中を一度ならず歩いていたにもかかわらず、おそらく同じ景色のなかにいたことはなかっただろう。
二年前に澤田から自身の第一句集である『革命前夜』が送られてきたのは、どうしてだったか。版元が邑書林であるから、あるいは寄贈者のリストをつくる際に『新撰21』の執筆者がその候補としてあがり、その流れで僕の手元にも来たものだろうか。しかし僕は『新撰21』刊行後数回にわたって転居しているから、僕の現在の住所を知っている人はそれほど多くないはずで、その意味でも少し不思議な感じがする。
僕はこの句集を面白いとは思わなかった。すでに俳句形式の知っている俳句がそこにあったからだ。表題句もそのうちの一つであったし、この句についていえば、作為の見え透いているのも、ドラマチックなものへの憧れをあけすけに表現して憚らない姿勢も気に入らなかった。

長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。

「山月記」において、虎になった李徴の詠ずる詩に対して旧友袁傪は密かにこう考えるが、これは澤田の『革命前夜』についてもいえることではあるまいか。
もっと正直に言うなら、僕は封を切ってもしばらく頁を繰る気すら起きなかった。「革命」「前衛」「有馬朗人」―こうした言葉を恥じらいもなく自らの句集の帯に入れてしまう書き手の気持ちなど分かち合いたくなかったのである。だから、ただ自分とは相当に違う場所にいる人なのだというのが澤田に対する第一印象だった。
だから、僕は澤田が亡くならなければこの稿を起こすことはなかっただろう。これは恐ろしいことだ。澤田が亡くなってから「週刊俳句」で澤田の追悼特集が組まれ、僕はその死によって初めて澤田の仕事を知った。同時に、この同世代の書き手がどのように生き、何を見つめてきたのかを、僕なりにおぼろげながら知ることになった。だが、澤田について知るにつれて、ますます怖くなるのだ。いったい僕に「澤田和弥」を読む資格などあるのだろうか。いまの僕は、俳句は誰にでも開かれているものだとか、誰でも自由に読んでいいのだなどという言葉を聞きたくない。そのような言葉は僕に「澤田和弥」の俳句を読む勇気を与えてはくれないからだ。実際僕は、たとえば佐藤文香のようにそれを読むことはできないのだ。

地方の県立高校で優等生、指定校推薦で大学に入り、しかし精神的に調子を崩して次の進路がうまくいかず、少しは東京で足掻いたけれども結局実家に帰り、地元の役所につとめるも辞めざるを得なくなり、無職。友達はみんな、結婚してゆく。
というのは澤田さんの人生の一部分であり、また、わたしの人生の一部分である。
(佐藤文香「澤田さんありがとう」『週刊俳句』二〇一五・五・三一)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/blog-post_57.html

これは僕の人生とは全く違う。でも、僕の人生が誰にでもよくある人生であるように、澤田の人生もまたよくある人生であるような気もする。わずかばかりの幸運や悲運をひけらかすのはみっともないが、そのわずかばかりのあれこれに縋りながら僕は生きてきたし、そのような幸運や悲運を旗印にするくらいの傲慢さを僕が持っていなかったとは思えない。だが、その僕はいったいどれほどのものを見てきたというのだろう。僕は澤田の合図に応えることをしなかった。それは僕が澤田を見たくなかったからだ。僕は最初で最後の澤田からの挨拶を見逃して、僕自身の幸運と悲運とをいっそう確かなものにしていったのだ。
結局のところ、僕が「澤田和弥」を怖いと思うのは、「澤田和弥」から僕が拒絶されたからではなく僕が「澤田和弥」を拒絶した結果なのである。だがそのような傲慢な考えを認めることで―いわば僕には「澤田和弥」を読む資格がないのだということをもって自らの矜持とすることで―僕はようやく「澤田和弥」を読むことができそうな気もする。

せんじつめればアウトサイダー・アートとは、ひとの生から絶対になくすことができない負の宿命と、たったひとりで拮抗するためにこそ存在する。けれども考えてみれば、それこそが芸術のもっとも根源的な姿なのではあるまいか。(椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』幻冬舎、二〇一五)

誤解のないようにいえば、僕は澤田を「アウトサイダー」だと思っているわけではない(そもそも俳句における「アウトサイダー」とは何だろうか)。ただ僕は、「芸術」が「ひとの生から絶対になくすことができない負の宿命と、たったひとりで拮抗するためにこそ存在する」というのなら、それは澤田の俳句のある部分を言い当てているような気がする。ただ、「たったひとりで」というのは、「澤田和弥」には似つかわしくないようだ。

澤田さんは早大俳研の先輩だ。
1日で100句つくろうと言い出したのはわたしではなかったのだが、たぶんわたしの東中野のマンションで、たしか目白の女子学生会館を出てすぐだったと思うから大学3年生のはじめごろだろう、何人か集まって俳句をつくるということになり、でも誰がいたかはあまり覚えていなくて、ただし澤田さんが来たのは覚えている。
なぜ覚えているかといえば、その夜結局皆家に帰らず、わたしの家でぐだぐだとしていたはずで、ベランダに出る側のカーテンに触れるか触れないかのところに、澤田さんは寝転がっていびきをかいていて、腹が少し見えていて、うわっと言うほど毛深くて、ほかのみんなと笑ったような気がするからだ。

たぶん、澤田和弥の腹の毛を見たことがある者とそうでない者とでは、「澤田和弥」の読みかたが違ってくると思う。あるいは、違ってなければならないと―これはほとんど僕自身のために―祈るような気持ちで思っている。作品と作者とを結びつけた読みの弊害については俳句に限らずすでに多く論じられてきた。だが僕は、この期に及んで作者と結びつけた読みに留まっていたいと思う。金子敦を「誤読」する澤田の姿が美しいのは、そのような読みに留まるために全身全霊を賭けることのできたことが美しいからだろう(澤田和弥「誤読 金子敦第四句集『乗船券』を読む」『週刊俳句』二〇一四・二・一六。http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/blog-post_15.html)。僕は金子の句を澤田のように読むことができないし、澤田のように読むことがあってはならない。そして、そのような絶対的な距離感のなかに身を置く清潔さこそ、「澤田和弥」を読むうえで求められることであるように思われてならない。

そうして、附加えて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこの途を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人(とも)を認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以て、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
袁傪は叢に向って、懇に別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、堪え得ざるが如き悲泣の声が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。
一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

「山月記」の最後で、李徴は自らが人間であった時分の唯一の友人である袁傪に自らの「醜悪な姿」を認めさせるべく叢から躍り出て咆哮する。そのときの咆哮はしかし、本当に咆哮だったのだろうか。先に李徴は「己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯だ、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない」と嘆いていた。とすれば、李徴の咆哮は咆哮ではなく、他のなにかであったのかもしれない。しかし、袁傪ですらもはやそれを判別しがたくなっているだとしたら、これほど哀しいことはないだろう。それは李徴の哀しみであり、同時に袁傪の哀しみでもある。だが、詩をつくる者と読む者との間にある哀しみとは、こういうものではなかったか。そして、その哀しみだけが、つくる者と読む者との共有できる唯一のものではなかったか。

澤田さんのPCメールの表示名は「さわだかずや」なので、我々は「さ」と「か」と「や」が共通しているな、とこのとき気づいた。「さ」さいなことで「か」なしくなってしまう「や」さしいわたしたち。なんてね。

先の追悼文のなかで佐藤はこんなふうにも書いていた。思えば「かずき」という名を持つ僕も「かずや」とは一文字違いなのである。でも僕は自分がそこに「わたしたち」と言い添えることができるとは思えない。むしろ、「かずき」はついに「かずや」にはなれないのだということばかりが気になってしまうのだ。
「百叢一句」はこれで終わりである。僕は初め、既成の俳句史が振り返ることのない「俳句」のありようを(既成の俳句史の書き方が持つ暴力性を明示する意味も込めて)漠然と「叢」と名付け、その「叢」のなかを探すようにこの連載を続けてきたつもりだった。けれど、まっさらな『革命前夜』の頁を繰りながら、僕は叢から毛深い何ものかが躍り出て、そうして何か声を発したのを見たような気がした。でもそれが獣の咆哮であったのか、人間の声であったのか僕にはわからない。それはとても哀しいことだ。でもそんなことはどうでもいいのかもしれない。結局僕たちはこういう出会いかたしかできなかったのだし、それでよかったのだと思う。「かずや」「かずき」の間にあるほんのわずかな擦れ違いのようなものを―しかし決して互いに越えることのできない違いを―哀しみつつそれでも認めることができるなら、そのとき初めて僕と澤田は「僕たち」になれる気がする。