【69】  蝶を見るばけもの好きの子供かな   永末恵子

いつであったか何かの本で、なぜ子供は、猫や魚、昆虫などといった動物に強い興味を示すのかという質問に対して、それはそれらの生物たちが大人よりよっぽど自由に生きているからである、といった意見が述べられているのを読んだことがある。

当然のことではあるが、確かに大人というものは、多かれ少なかれこの社会の中で様々な制約に縛られて日々の暮らしを送らざるを得ないという側面がある。それに対して、子供の方は、大人のような社会的な意識自体が希薄であり、どちらかというと自然そのものに近い存在といえよう。動物への親和もこのあたりに起因するものといえるはずである。

掲句に描かれているのは、一応、基本的に「蝶」を見ている「子供」のみということになる。ただ、ここでは、その「子供」が「ばけもの好き」であると表現されている。この部分が、掲句における奇妙さを生じさせているポイントといえよう。「ばけもの」は、「化物」もしくは「化け物」とも表記し、主に動植物などが奇怪な姿、形をして現れ出たもののことを意味し、別称として「お化け」、「妖怪」ともいう。

思えば、子供というものは、動物のみならず、このようなお化けや妖怪などの「ばけもの」に対する興味の示しようもまた尋常ではないところがある。日本の昔話や怪談、または水木しげるや梅図かずおなどの漫画に出てくる妖怪やお化けたちは、それこそ子供にとって親しい友人とさえいっていい存在であろう。

掲句における「蝶」の存在もまた、そのような「ばけもの好きの子供」にとってそのまま興味の対象となり得るものということになるはずである。「蝶」は、そもそも幼虫が変化したものであり、それが羽を用いて宙を自在に舞っているわけであるから、それこそ「ばけもの」にも一脈通じる不可思議さを感じさせる存在といえるように思われる。

おそらく永末恵子という作者の根幹を成しているのは、掲句にも見られる「童心」なのではないかという気がする。他にも〈青芦原列車から手を出している〉〈屋根裏にみんな来ている雪催〉〈針の目を抜けて来るらん秋の猫〉〈四の五のと云うとてもすべりひゆなのね〉〈退屈が大きな桃となっている〉〈問題集その一小春日が終わる〉〈間が持たぬ持たぬと鯰飼い始む〉〈地鶏とか女神とか夏深みかも〉〈目薬をさして寒がる雪月花〉〈春の山カバヤ謹製と小さく〉〈生小餅なぜ暗がりが好きなのか〉などといった句が見られる。

全体的にあまり謹厳な雰囲気は感じられず、常套的な表現を軽やかに踏み外してゆく叙法がなんとも爽快である。それこそ言葉遊び的とでもいうべき、口語主体のコミカル(漫画的)な表現による一風変わった作品世界が展開されている。そして、その世界は、やはり作者自身の幼少期の記憶と深い関わりを有しているといえそうである。他に〈おもかげに荒草まじる昭和かな〉という句も見られ、このように見ると昭和へのノスタルジーが割合強めに感じられるところがある。これらの作品から受ける印象については、例えば、小説では、川上弘美。短歌では、紀野恵、東直子。同じ俳句では、池田澄子、正木ゆう子あたりの作品から感じられる雰囲気と似通うものがあるといえようか。

ともあれ、永末恵子の俳句は、ソフトさや軽快さを伴う緩やかな表現を基調としつつ、一方で並々ならぬ言葉のセンスと知性に裏打ちされた、まるでなにかしらの軟体動物の形状や手ざわりを髣髴とさせるなんとも奇妙な感覚を備えた作品といえよう。

永末恵子(ながすえ けいこ)は、昭和29年(1954)、広島県生まれ。平成元年(1989)、句作開始、橋間石の「白燕」入会。歌集『くるる』。平成3年(1991)、第1句集『発色』。平成5年(1993)、「白燕」退会。平成6年(1994)、第2句集『留守』。平成11年(1999)、第3句集『借景』。平成15年(2003)、第4句集『ゆらのとを』。