【71】  旗のごとなびく冬日をふと見たり   高浜虚子

かつてひとりの俳人が次のように言ったという。「虚子は西洋だよ」。この言葉の意味を長い間解しあぐねていたのであるが、改めて虚子の作品を眺めてみると、この言葉の意味するところもいくらか理解し得るように思われる部分もあった。

例えば、明治から大正の頃の〈怒濤(どとう)岩を噛(か)む我を神かと朧(おぼろ)の夜(よ)〉〈年を以(もつ)て巨人としたり歩み去る〉〈木曾川の今こそ光れ渡り鳥〉〈蛇逃げて我を見し眼の草に残る〉〈夏の月皿の林檎(りんご)の紅を失す〉〈冬帝先(ま)づ日をなげかけて駒(こま)ヶ嶽(たけ)〉などの句を見ると、確かに芭蕉などの作風とはやや異質な西洋詩的な雰囲気がしないでもない。

また、昭和の時代の作品にしても〈われの星燃えてをるなり星月夜〉〈凍蝶(いてちよう)の己(おの)が魂追うて飛ぶ〉〈松過ぎの又も光陰矢の如く〉〈寒といふ字に金石(きんせき)の響(ひびき)あり〉〈春眠や靉靆(あいたい)として白きもの〉〈烈日(れつじつ)の下に不思議の露を見し〉〈爛々(らんらん)と昼の星見え菌(きのこ)生(は)え〉〈わが終り銀河の中に身を投げん〉〈我れが行く天地万象凍(い)てし中〉など、そのような句の存在を相当数見出すことができる。いずれも非凡なまでの感覚の閃きが見られ、いうなればそれこそ「新興俳句」の作品を髣髴とさせるようなところがある。また、虚子には他に、擬人的な表現や時制を取り込んだ作品の存在も割合少なくない。

掲句にしても「冬日」を「旗」と見立てているゆえ、やや西洋的な雰囲気が感じられるといっていいであろう。ここには基本的に「冬日」が描かれているわけであるが、眼がくらむほどの眩さはさほど感じられないようなところがある。おそらくそれは、「旗」という言葉の存在が、柔らかな質感をそのまま連想させるためであり、また、句中の「ごと」、「なびく」、「ふと」といった平仮名の印象の強さゆえのものでもあるのであろう。それこそ掲句からは、全体的に謹厳さとは対照的な茫洋とした雰囲気が感じられる。

虚子の俳句における白痴性を指摘したのは、山本健吉と平畑静塔であったが、この要素もまた虚子の句における大きな特徴といえよう。掲句にしてもいくらかそういった趣きがあるが、それこそまるで何も考えていないかのように無造作に投げ出された感のある作品は、他にも〈遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな〉〈春の浜大いなる輪が画(か)いてある〉〈川を見るバナナの皮は手より落ち〉〈うかとして何か見てをり年の暮〉〈その辺を一廻りしてただ寒し〉〈何事も知らずと答へ老の春〉〈何もせで一日ありぬ爽(さわ)やかに〉〈放擲(ほうてき)し去り放擲し去り明(あけ)の春〉〈何事も神にまかせて只(ただ)涼し〉など少なくない。もし芭蕉の弟子であったならば虚子はまず破門されていただろうといわれているが、確かに芭蕉の割合緊密な構成を持つ作品と比較した場合、両者の作者としての資質は相当に異なるものといっていいであろう。

ともあれ、虚子の作品には、和と洋、雅と俗、理知と放埓、主観と客観、壮大と琑末、写実と空想、具象と抽象、典型と破格など、多種多様な要素が混然一体となって展開されている感がある。その生涯に残した俳句作品は、一説には二十万句ともいわれているが、やはり非常に懐の深い作者であり、それと同時にその茫洋とした捉えどころのなさゆえ俳句史上において一、二を争う程の不可思議な作者ということができそうである。

高浜虚子(たかはま きょし)は、明治7年(1874)、愛媛県生まれ。明治21年(1888年)、伊予尋常中学に入学。正岡子規に兄事し俳句を教わる。明治31年(1898)、俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転。明治35年(1902)、俳句をやめ、小説に専念。大正2年(1913)、俳壇に復帰。大正4年(1915)、『虚子句集』。昭和12年(1937)、『五百句』。昭和18年(1943)、『五百五十句』。昭和22年(1947)、『六百句』。昭和30年(1955)、『六百五十句』。昭和34年(1959)、逝去(85歳)。 昭和39年(1964)、『七百五十句』。