【82】  冬の河石岩巌ごろごろす   島津亮

若干俳句的なセオリーから外れた作品といえそうである。おおよその俳句作者は、冬の河原の風景をこのようなかたちで表現することは、まずないであろう。それこそ中七から下五にかけての部分については、ある種の稚気のなせる業といえそうである。ただ、中七の「石岩巌」の表現については、やはり俳句形式であるがゆえにもたらされる結果となったものと見ていいであろう。掲句は、島津亮のごく初期の頃の作品であるが、まさに思うがままに句作をした結果生み出された一句といえそうである。

その中七「石岩巌」の「石」、「岩」、「巌」は、一見それぞれ明確な区別があるように思われないところがあるが、一応各々に定義が存在する。「石」は、「岩より小さく、砂より大きい鉱物質のかたまり」であり、「岩」は、「石の大きいもの。特に加工せず表面がごつごつしているもの」。そして、「巌」は、「大きな岩。特に、地上に突き出た大きな岩」とのことである。

また、中七の特異さもさることながら、それのみならず下五「ごろごろす」の表現からもやや放埓な印象を受けるといえよう。この「ごろごろ」というオノマトペの作用によって、若干漫画的な風趣さえ立ち上ってくるところがある。ともあれ、掲句においては「冬の河」の景観が、まるで投げ出されるようなかたちで描出されている。

島津亮は、西東三鬼の弟子の一人である。他に三鬼の弟子としては、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房などが存在するわけであるが、その中にあって島津亮は、やや異色の存在といっていいであろう。敏雄、六林男、鬼房が、それこそ謹厳で実直な作家といった趣きが強いのに対して、島津亮については随分と奔放な印象がある。

三鬼の俳句には、主として自己を含む様々な人々の悲喜劇がある生々しさを以て描かれていたわけであるが、そういった三鬼の作家としての資質を最も色濃く受け継いだのが島津亮といえそうである。例えば〈父酔ひて葬儀の花と共に倒る〉〈花見にゆく膝の瓶酒しづかなり〉〈土砂降りの傘の中にて諍へる〉〈氷挽く帯がほどけてならぬなり〉〈女に突かれ男抱きつく櫻の木〉〈怒らぬから青野でしめる友の首〉など、やや道化的な風趣が色濃く感じられ、ここにはまさに人間の姿が直載なかたちを以て捉えられている様子を見て取ることができよう。

また、島津亮は、時代の流れと共に前衛俳句運動に身を投じ、〈炎天へ真赤な国へ逃げころぶ〉〈僕等に届かぬ鍵がながれる指ひらく都市〉〈ピンで止める壁の欲望 寝てながれる馬〉〈湿ったジャンパーで跼みひらめになれないか〉〈銃よりちかし改札口の焼けるオルガン〉〈智恵の巨人遠のくカーテン煖炉燃やし〉などといった、奇抜な表現による句を成している。こういった表現については、それこそ掲句に見られるように作者の内に早くから胚胎されていた性質のものといえそうである。そして、それが時代の流れと共振共鳴することによって、このような特異な作品として現出する結果となったのではないかと思われる。

ただ、島津亮が、単に奔放なだけの作者であったのかというと、その句業を眺めてみた場合、必ずしもそうとも言い切れず、結局のところこのような表現の放埓さについては、作者の内的なヒューマニズムの作用による側面も小さくないのであろうが、それのみならず、もしかしたらある種の繊細さの裏返しによるものであったといえる部分もあるのかもしれない。

島津亮(しまづ りょう)は、大正7年(1918)、香川県生まれ。昭和21年(1946)、西東三鬼師事。「青天」参加。句作開始。昭和23年(1948)、「雷光」創刊同人。昭和26年(1951)、「梟」創刊同人。昭和27年(1952)、第1句集『紅葉寺境内』。昭和32年(1957)、「夜盗派」同人。昭和35年(1960)、「縄」同人 第2句集『記録』。昭和37年(1962)、「海程」創刊と同時に参加。昭和43年(1968)、「ユニコーン」創刊同人。昭和44年(1969)、『戦後俳句作家シリーズ16 島津亮句集』。昭和52年(1977)、第3句集『唱歌』。昭和58年(1983)、復刊「夜盗派」95号より同人に復帰。平成12年(2000)、逝去(82歳)、『島津亮句集 亮の世界』。