長谷川かな女は、大正7年(1918)刊行の高浜虚子『進むべき俳句の道』において、唯一取り上げられた女性俳人であり、また『俳句研究』昭和44年(1969)8月号の後記において当時同誌の編集長であった高柳重信は、かな女のことを「現代の女流の最高峰」と評している。
夫は長谷川零余子(1886~1928)で、かな女と同じく俳人であった。零余子は虚子の弟子であったが、段々と「ホトトギス」の客観写生に飽き足らなくなり、やがて「立体俳句」という独自の理論を提唱するに至った。作品もまた〈雛の日や句に詠まれたる池の鯉〉〈田螺鳴く溝を流るゝ玩具かな〉〈山吹や金閣も見ず雨の京〉〈地の底に蟲生きてゐる枯野哉〉〈鮎焼きて残る火赤し時鳥〉など、「ホトトギス」とはやや異質な、単なる写生にとどまらない作品を確認することができる。「ホトトギス」といえば平句的な一物仕立ての句が多いわけであるが、ここに見られるのは発句的な重層構造に近いものといっていいであろう。零余子は、「立体俳句」の理論を完成させることなく43歳で亡くなってしまうが、その零余子の意志を受け継いだのが、かな女ということになりそうである。
掲句は、かな女の第1句集『龍膽』収載の作で大正2年(1913)のものということになる。季語である「時鳥」の配合が若干恣意的な印象を受けるが、おそらくこれは『古今和歌集』収載の読み人しらずの〈ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな〉あたりが踏まえられているのではないかと思われる。
また、掲句は、若干「立体」的な構造が見て取れるところがある。「時鳥」から想起される外部の広大さと、それに伴って増幅される建物内部における「ものゝ文秘めて」の陰影を帯びた秘匿性。零余子は大正2年(1913)に〈木蓮に翔りし鳥の光りかな〉という句を得て「立体性」、「立体表現」の概念を思い付いたとのことである。かな女の句は先にも述べた通り同じ年の作であり、この零余子の発想が元となって成されたものと考えることもできそうである。
かな女の句業を眺めると、他にも〈春暁の天窓すぎる猫白し〉〈茜して初日上りし大都かな〉〈藻くゞつて月下の魚となりにけり〉〈蓮を掘る水底に城の響きあり〉〈虫の卵を育てゝゐたる冬の芝〉〈雹にうたれ白さも白し大桜〉など、「立体俳句」的な作品の存在が少なくない。また、かな女の場合、ここに女性としての要素が加わるということになる。掲句にしてもそうであるが、〈羽子板の重きが嬉し突かで立つ〉〈願ひ事なくて手古奈の秋淋し〉〈蝶のやうに畳に居れば夕顔咲く〉〈山梔子の花ほど白き帯のなし〉などは、男性では成し難いものといっていいであろう。
ともあれ、長谷川かな女は、零余子の俳句に対する問題意識を自らのものとして引き受け、その後、延々と作品の上において独自に展開させていった俳人ということができるように思われる。
長谷川かな女(はせがわ かなじょ)は、明治20年(1887)、東京都日本橋生まれ。明治42年(1909)、英語の家庭教師で「ホトトギス」の俳人であった富田諧三(のちの長谷川零余子)と結婚。自らも句作を開始。大正2年(1913)、虚子によって開始された婦人俳句会「婦人十句集」幹事役。大正10年(1921)、零余子「枯野」創刊。昭和3年(1928)、零余子逝去。埼玉県浦和市に転居。昭和4年(1929)、『龍膽』。昭和5年(1930)、俳誌「水明」創刊、主宰。昭和14年(1939)、『雨月』。昭和30年(1954)、『胡笛』。昭和38年(1963)、『川の灯』。昭和39年(1964)、『定本かな女句集』。昭和44年(1969)、『牟良佐伎』、逝去(81歳)。