【93】  わたくしを好きなときあり藪柑子   池田澄子

人の心とは、それこそまるで天候のように不断に移り変わってゆく性質のものといっていいであろう。掲句は、一見単純そうな内容ながら、少々複雑な内実を有しているようである。「わたくしを好きなとき」であるゆえ、一読まるで自己をそのまま肯定的に捉えた表現であるかのような印象を受けるところがある。しかし、改めて句を眺めてみるならば、「わたくしを好きな時あり」という表現は、そのような単一的な性質のものではないことが理解できるであろう。それこそこの表現の意味するところは、もしかしたら、普段における自らに対する思いは「さほどでもない」ということになるのかもしれない。

「藪柑子」は、一〇~三〇センチほどの小さな木で、葉の付け根に小さな球状の赤い実を結ぶ。俳句では、冬の季語となる。まさに「わたくしを好きなとき」の軽い心躍りをそのまま表象したものといえよう。

掲句は、第三句集『ゆく舟』収載の一句である。やや反語的で客観性を伴ったおかしみの感じられる作品となるわけであるが、この作者の俳句は、全体的に随分と多彩なところがある。掲句のような変則的な視点やユーモアを伴った作品の他にも、現実の奇妙さを捉えた作品やシリアスな作品など、日々の哀歓が様々なかたちで表現されている。

また、掲句のように「わたし」「われ」に対する意識やこだわりの強さが感じられる句が、他にも〈呼んでいただく我名は澄子水に雲〉〈思いこめば我も草なり草に種〉〈有り難く我在りこぼす掻氷〉〈秋風にこの形ゆえ我は人〉〈目覚めるといつも私が居て遺憾〉〈われ在りとたまに思いぬ寒の水〉など、少なくないが、このように見ると、池田澄子の作品には、世界と自己との関係性やそこから生じる様々な感情の起伏を詠み込もうとする意思が内在しているといえそうである。

掲句も含め、全体的に「本当のこと」が描かれているといった趣きが強く、〈習慣で家へ帰りぬ春の星〉〈産声の途方に暮れていたるなり〉〈育たなくなれば大人ぞ春のくれ〉〈短日の扨てと立ちしが世に一人〉〈我々は木を木と称(よ)んで初嵐〉〈まんさくや希いかなえばまた希う〉など、一読虚を衝かれる作品が数多く見られるが、その中で常に一貫しているのは、絶えず通念を疑い、物事を嘘偽りなくありのままに捉えようとする態度となろう。また、そのことを可能にしているのは、徹底した客観性であるとともに、自己を含む現実に対する洞察力の深さ、それに加えて言葉の働きに対する認識の確かさといえるはずである。

自明のものが、必ずしも自明であるとは限らない。人の思考というものが、如何に固定観念に捉われてしまいやすい性質のものであるか。そのことに作者はどこまでも自覚的である。結局のところ、池田澄子の俳句は、現実の世界を深く見据え、常に自らの実感を基点とし、その上での連綿たる思索と試行の果てに姿を現すものということができそうである。

池田澄子(いけだ すみこ)は、昭和11年(1936)、神奈川県生まれ。昭和50年(1975)、堀井鶏主宰「群島」入会、のち同人。昭和58年(1983)、三橋敏雄に私淑、のち師事し、「檣の会」入会。昭和63年(1988)、「未定」参加、「船団の会」参加、第1句集『空の庭』。平成5年(1993)、第2句集『いつしか人に生まれて』。平成7年(1995)、「豈」参加、『池田澄子句集(現代俳句文庫29)』。平成12年(2000)、第3句集『ゆく舟』。平成17年(2005)、第4句集『たましいの話』。平成20年(2008)、評論集『休むに似たり』、エッセイ集『あさがや草紙』。平成22年(2010)、『自句自解ベスト100 池田澄子』。平成23年(2011)、第5句集『拝復』、『兜太×澄子 – 兜太百句を読む』。