これまでの俳句史上において最も天才的な俳人の一人に数えられるのが、やはり石田波郷であろう。弱冠十八歳で、水原秋櫻子の「馬酔木」の巻頭を飾り、その後、二十四歳で「鶴」を創刊主宰するという早熟ぶりには驚嘆する他にないところがある。
本人は、虚子、青畝、秋櫻子、五十崎古郷という系譜の上に自らを位置付けているわけであるが、その作風は、虚子の平句的で茫洋とした作風とは対照的であり、秋櫻子とは、初期の時期こそその影響が認められようが、それ以降はさほど顕著ではなく、また、青畝からの影響も小さくはないとはいえ、結局のところ、芭蕉の作風に近い性質のものと見るのが妥当であろう。
掲句は、第四句集『雨覆』収載のものである。「西日」は、夏の季節における夕日のことを意味する。ここには、その夏の夕日に照らされている「電車」での様子が描かれている。「どこか摑みてをり」の「どこか」が少々曖昧であるが、当然ながらこれは吊皮や設えてある金属製の棒状の手摺と見るのが妥当であろう。ただ、ここではそういった具体性についてはさほど重要ではなさそうである。
「電車」と夕日という組み合わせは、割合ありきたりなものといえようが、ここでは「西日」であることがポイントとなるはずである。他の季節と比べて夏の夕日は、随分と光量の強い性質のものとなる。もしこれが実際の車内であれば、暑さゆえに大変な思いをすることになるわけであるが、掲句はあくまでも俳句作品である。それゆえ、ここからは、どちらかというとそういった苛烈な暑さよりも、むしろ「西日」の眩さゆえの清浄さの方が印象に残るところがある。
ともあれ、掲句からは、その無内容的な叙法と幾許かの抒情性、そして「西日」の強い印象ゆえ、一読忘れ難い一句といえよう。
掲句からは、いま見たようにやや過剰とでもいうべき要素が確認できるわけであるが、思えば波郷には初期のころから、そういった性質の作品がいくつか見られる。例えば〈兜虫漆黒なり吾汗ばめる〉〈秋の暮業火となりて秬(きび)は燃ゆ〉〈硯の上水迸れ思ひごと〉〈雨はげし青栗いよゝ青くして〉など、いずれもある種の過剰さを見て取ることができよう。
波郷の弟子である齋藤玄に〈雁のゐぬ空には雁の高貴かな〉という句が存在するが、ここからはそれこそ波郷の代表作〈雁や残るものみな美しき〉が思い起こされるところがあり、結局、波郷の句業において一貫して底流しているのは、こういった気高さなのではないかという気がする。他にも〈春暁のまだ人ごゑをきかずゐる〉〈初蝶やわが三十の袖袂〉〈胸の手や暁方は夏過ぎにけり〉〈槙の空秋押移りゐたりけり〉〈玉虫を拾はず過ぎて何恃まむ〉〈桔梗や男も汚れてはならず〉などの句からは、そういった要素を直載に見て取ることができよう。そして、こういった抑制された表現の中にも漂う気高さは、遂に波郷以外には自らのものに成し得なかった要素であるように思われる。
石田波郷(いしだ はきょう)は、大正2年(1913)、愛媛県生まれ。昭和5年(1930)、五十崎古郷に入門。「馬酔木」に投句。昭和7年(1932)、上京。昭和10年(1935)、『石田波郷句集』。昭和12年(1937)、句誌「鶴」創刊主宰。昭和14年(1939)、『鶴の眼』。昭和15年(1940)、『行人裡』。昭和16年(1941)、『大足』。昭和18年(1943)、『風切』。昭和21年(1946)、『病雁』。昭和22年(1947)、『風切以後』。昭和23年(1948)、『雨覆』。昭和24年(1949)、『胸形変』。昭和25年(1950)、『惜命』。昭和29年(1954)、『臥像』。昭和32年(1957)、『春嵐』。昭和43年(1968)、『酒中花』。昭和44年(1969)、11月逝去(56歳)。昭和45年(1970)、『酒中花以後』、『石田波郷全集』全10冊(1972年完結)。昭和62年(1987)~昭和63年(1988)、『石田波郷全集』全11冊。