2011年8月 佐藤文香 × 相子智恵

この連載記事を書き始めてから、いつか誰かがそんな風に二十句の作品をまとめてきたら、そのときはどう書いたらいいだろう、とずっと悩んでいたことがあって、そのことに答えを出す前に、とうとうそんな作品が、出てきてしまった。
佐藤文香の「ともかがみ」がそれだ。
一句ずつを、ところどころ拾いながら数珠のように繋げるそぶりで読んでいくという態度で向き合うことが、なんだか正しくないような、そんなまとめ方の連作。
しかも、この作品のさらに書きづらいところは、もはやデジタル媒体への引用が難しいくらい、本の、見開きに載る作品であることに意味を見出していること。

ここまで読んでくださった読者の方で―たぶんこの文章を読んでいらっしゃる方は「ともかがみ」を既読の方がほとんどだと思うのですが―ちょっと福田若之が何を書こうとしているのかわからないという方は、ここから先のタネあかしを見てしまう前に、まずもう一度、あの二十句を、「映像として」ぼーっと眺めてみてください。
……いかがでしょうか。

ともかがみ。漢字変換すると「共鏡」。合わせ鏡のこと。
シンメトリーだ。
見開きの左右に対称になるかたちで、イメージの重なる句が配置されている。
たとえば、ページの両サイドからそれぞれ三句目。

  交際や鏡に紫蘇の茂らざる     佐藤文香

  忖度や鋏は紫蘇を千切りに

この二句は二十句の中でも、とりわけ言葉の上での対称性が顕著な一組みといえる。「交際」は付き合うこと、「忖度」はひとの心を推し量ること。人間関係にまつわるそれらの抽象的な言葉を切れ字の「や」で詠嘆し、そこに「鏡」と「鋏」という金偏の漢字一文字で表される無機的な素材と「紫蘇」とが織り成す光景を取り合わせる。
具体的なモノについてドライに描くこと―「紫蘇」はこの二句において、奇妙なまでに具体的で現実的な素材だ―と、二句の対称性を強調することによって、「交際」「忖度」といった、人と人とのつながりといったコトを意識させながらも、そこにあからさまな感情を読みとらせることがない。そして二つの句のイメージは対称性と俳句定型の織り成す審美的な様式に還元されていく。
ひとりの作者が同時に発表した二つの作品が、対称性を持っているということは、どういうことだろうか。セルフパロディという言葉があるけれど、それとはまた違う。パロディという様式が、テクストの主従関係をつよく意識させるものであるのに対して、おなじ場所に対置される二つの対称的な作品は、いわば相互に対等に干渉している。一句一句は独自に意味をなしていながらも、互いの意味に少なからず干渉しあう。それはあたかも、両者を相互に、かつ、無限に映し出す合わせ鏡のように。
それにしても、なぜ、対称なのか。それは、ひとつの意識的な様式なのだと思う。どうしてこれほどまでに、この書き手は様式を嗜好し、志向し、思考するのか。その問いかけに対する答えにつながりうることは、「いまかがみ」と題された短文に、ひとまずは語られている。書きたいことをそのままに書くことを、恥ずかしいと感じるということ。作者は、それでも、書きたいというあたりまえの欲求を満たすために、作品を、これほどまでに意識的に、ひとつの様式を体現するものとして提示しなければならなかったのではないだろうか。
短文の中に、「たまには書きたいこともある」と、作者は記している。裏を返すと、「たまにしか書きたいことはない」ということになる。けれど、それ自体が照れなんじゃないかと、僕は思う。思いたい。だって、書かなければいけないと思うことや、そう書かなければいけないと思う書き方が、書きたいと思うことや、そう書きたいと思う書き方じゃなかったら、やってらんないじゃないですか。―なんて、子供っぽいのかもしれないけれど。
だから、この連作が左右対称に並んでいることののっぴきならなさは、俳句という表現形式において「書きたい」をさらけだすことがおよそ好まれない、という「そう書かなければいけない」要請と、「書きたい」をあからさまにさらけだすことは恥ずかしいからしたくない、という「そう書きたい」欲求とが綺麗に手を結んだ結果だと感じるのだ。

  露台まはりは天空しわにならぬシャツ     同

ひょっとすると、持統天皇の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」あたりに根っこがあるのかもしれない。真っ白な服を初夏の青空へ向けて干すことの、優雅な気持ちよさ。それがもっと現代的に、そしてもっと庶民的に、それでいてなおも詩的に記されている。これと対になっている句が、

  箱庭の空より人を入れてけり     同

だから、なお面白い。どちらの句も、自分がいるところが「空」に属していることの発見を魅力的に語っていながら、両者の「空」は違う位相にある。そしてその位相のちがいが、前者の句をあたかも箱庭めいた虚構的な世界を描いたもののように見せると同時に、後者の句の箱庭の中を具体的にイメージさせるように思える。それは入れ子構造のようでありながら、作用としてはあくまでも双方向で、その辺り、まさに「ともかがみ」というにふさわしい。

相子智恵の「鳥影」と題された二十句も、同じモチーフを繰り返し描いているが、これは「ともかがみ」とはまた違った意味合いからだろう。

  まだやはき蛇の衣なり腥し     同

  蛇の衣深々と口裂けてをり

  蛇の衣まなこの皮もいちまいに

  三日目の夢なほ蛇の衣のかたち

「蛇の衣」を素材にした四句。前三句は、写生句としての生々しさがある。そしてその生々しい印象が、四句目の読みぶりに連続していく。これはひょっとすると

  ぬぎすてよ人の心の蛇の衣     井上井月

を意識しているのかもしれない。というのも、この作者が「繋がる」と題された短文で記しているのが、この句の作者である幕末に生きた漂白の俳人、井上井月への興味だからだ。作者は井上井月の生きた時代に、繰り返されつつある大転換の答えを見出そうと模索している。「子規の俳句革新で「月並み」とされた時代の俳句」に対してもう一度焦点を当てることに強い意味を見出している。もっとも、「今やほぼ忘れ去られた」とはいいつつも、いちおう研究もなされているようだし、彼の生涯を描いた漫画や映画があることを思えば、まだまだ恵まれているほうなのだろうとは思うけれど。
さて「蛇の衣」を題材にした四句をあえてこの井月の句に対するオマージュとして読んでみると、どうだろうか。
井月の句が「蛇の衣」のイメージに「人の心」を象徴させるつくりになっているのに対し、この四句のうちの前三句は、むしろ子規の志したような、客観写生のそれに思える。感覚をありのままに言語化する文体や、細部への着眼がもたらす生々しさは、まさしく写生的に優れている。
それが四句目において、井月の詠ったような象徴性に立ち返る。これは「蛇の衣」のイメージに「三日目の夢」を象徴させる句の作りだ。
こうした構成は、客観写生の俳句に対する意識から、言葉が生み出す象徴性を志向する俳諧に対する再考へと向かう、作者自身の意識の遷移をなぞっているかのようにも思える。
そしてまた――これは決してこの三句に対して否定的に言うのではないのだけど――もはや客観写生すら、型が確立してしまっているということ、その確立された型の中での完成度を希求する「遊び」としての側面が出てきてしまっているということを、これらの句を読んで思った。それはもはや、人間の五感や細部の質感を描き出すという、子規や虚子の頃には文化革新の手段に過ぎなかったはずの目標に向かって、ひたすらに矢を射つづけるような「遊び」になっている。「遊び」には「遊び」の素晴らしさがもちろんある。けれど、遊び心を持ちながら、なお「遊び」におさまらない志を反映させるために、俳句はときとしてあたらしい手法を、そうでなければ、古い手法のあたらしい使い方を、必要とするのではないだろうか。

さて、芸術において「あたらしさ」という概念を持ち出すと、必ずその曖昧さが問題になる時代だ。なにがあたらしくて、なにがあたらしくないのか。極小の視点に立てば、あらゆるものがあたらしくて、極大の視点に立てば、あらゆるものがあたらしくなどない。客観的な「あたらしさ」の基準なんてものは、もはや存在しないんだろう。あるのは主観的なあたらしさ。要するに、あるひとにとって、それがいままでに触れたことのない感触のものとして受け取られるか、否か。そしてその集積として、多くの人にとってそれがいままでにない感触のものとして受け取られるか、否か。それだけがあたらしさの基準として確かでありうる時代に、僕たちは生きている。だから、なおさら、もし、僕らがあたらしいものを作り上げようとするのならば、そのとき僕らはまず、僕ら自身で「今までになかった」と強く感じるものを作っていかなければいけないんだろう。あたらしさは、もはや説明されるものではなくて、感じられるものでしかないのだから。たとえば、井上井月が僕らにとって「今までになかった」感触をもつものだとすれば、それらについて深く知ることが僕ら自身で何かあたらしいものを作り出すことに繋がるかもしれない。あるいは、素材に必ずしも絶対的なあたらしさがなくとも、読み手にとって未知の触り方でそれらの素材に触ることができるようにデザインすることがあたらしさの創造に繋がるかもしれない。そして考えだせば、もっといろんな可能性が、きっとある。
あたらしいことだけがいいことではないし、なにも、あたらしければいいなんていうつもりもないのだけど、一方であたらしいことがなにもないなら、もはや僕らが俳句を作り出す意味なんてないと思う。あるいは俳句を詠むことに創造以外の何か大きな意味があるのだとしたら、話は別なのだろうけれど。